「世の中はそういうものなのだよ」に抗う/室井康成

「世の中はそういうものなのだよ」に抗う

室井康成(『政治風土のフォークロア』著者)

 人生の折々には、思いがけない転機が訪れるものだ。人生100年時代といわれる現代において、その道半ばにも達していない私がそれを語るには、まだ早すぎるだろう。人生の先輩方からみれば、アラフィフとなった私も「鼻垂れ小僧」に過ぎないと自覚している。

 私の転機は、大学の研究員を務めていた34歳の時に訪れた。2011年3月2日未明、現役の零細企業経営者であった父が脳内出血のため突然倒れ、2日後に死亡したのである。「人生は突然中断する」が口癖だった父は、その言葉どおり、意識を失うその日まで働き続けて泉下の人となった。葬儀の日、喪主の挨拶に立った私は、この父の口癖を会葬者に紹介し、「本人は有言実行したから悔いはないだろう。しかし、誰でも人生は突然中断する可能性はあるのだから、どうか皆さんも気を付けてください」という趣旨の話で締めくくった。それからわずか十数時間後、あの東日本大震災が発生し、私たちは多くの人生が突然中断するさまを目撃することになる。

 まもなく、父の会社の関係者や親族、はたまた取引先の金融機関から、私が父の跡を継いで会社経営に携わるべきだとするプレッシャーが陰に陽に掛けられるようになった。私は「家業」が嫌いだったからこそ他の職業を目指した面があり、公私の別を重んじる亡父もまた、家族を社屋の中に入れたことさえなかったし、まして息子を後継者にする意図など微塵もなかったであろう。だから、私にとっては「家業」であっても、そこで誰が、どのような仕事をしているのかさえ、父が死ぬまでまったく知らなかったのである。

 結局、2年あまり逡巡したのち、私は件の「家業」に転じたのである。だが幸いにして、古参のベテラン社員や実業経験のある多くの友人に助けられ、民俗学者の俄か商売も今年で10年目を迎える。人生の偶然の出会いには、感謝しかない。

 しかし、この間の来し方を振り返るに、ますます疑問に感じるのは、社内外に大きな責任を負うべき経営者の後継ぎに期待される資質が、能力や経験は二の次で、血筋が第一義的だとする風潮が根強いことである。少なくとも、中小零細企業の後継者に擬せられた私の経験では、そういう結論になる。実際に、商売相手との交渉でも、私が先代の息子であることがわかると、うまく進捗することがあったし、何かにつけ特別扱いされていると感じるシチュエーションも多々あった。私の場合は、たまたま手助けしてくれる人材が身近にいたため無事に過ごすことができたのだが、今でも私自身は、生来の習熟能力の低さも相まって、ビジネスについては「ド」が付くほどの素人である。ゆえに会社を代表するポジションには本当に資質のある人に就いてもらい、私はこれを支える立場にまわっている。

 こうした個人的経験から、私は、ある職掌において血筋を重んじる風潮は、日本経済の活力を抑制し、社会の機会平等を奪う一因──それどころか主要因──であると感じている。これは「実感の学」たる民俗学に拠って立つ私が、この10年で感得した事柄でもある。子が親の仕事を引き継ぐことは、時に美談として語られる場合もあるが、問題は、そうした風潮が、当該の人間に、自らの意思とは異なる人生を周囲が強いてしまう可能性があることではなかろうか。

 この種の弊の象徴は、何といっても公職たる議員ポストの世襲であろう。折も折、病気のため衆議院議員を辞職した岸信夫元防衛相の後継に、岸氏の長男・信千代氏が名乗りを上げた。信千代氏の伯父は、先年凶弾に斃れた安倍晋三元首相であり、安倍氏の外祖父は岸信介元首相、その弟は佐藤栄作元首相である。つまり、信千代氏の連なる「スジ(=血縁の意)」は、「戦後」と呼ばれる時代の約4割の期間で、国政のトップでありつづけたのである。

 その信千代氏は、出馬表明と相前後して公開したウェブサイト上で、如上の「スジ」に連なる華麗な人脈を、なぜか女性を排除するかたちで図示し、批判を浴びたことは記憶に新しい。この挙を難詰した人々は、世襲のゆえをもって、さしたる苦労もなく国会議員に当選するであろう信千代氏への嫉妬の念もあったに違いない。だが、少なくとも我が国では、あらゆる職掌において血筋を重んじる風潮がある以上、これは今のところ「世の中はそういうものなのだよ」としか言いようがない。

 私が信千代氏に問うことがあるとすれば、「政治家になりたいというのは本心なのか?」の一点である。もし、かかる風潮に飲み込まれるかたちで、氏が自らの意志に反し、他の未来を封印されたのだとしたら、私は氏に心底同情するし、気の毒だと思う。過去には、汚職事件で逮捕・起訴された自民党の世襲代議士が、法廷で「政治家になりたいと思ったことは一度もなかった」という趣旨の言葉を述べて悔恨の情を示し、情状証人となった母親もまた、息子を政治家にしたことは間違いだったと涙ながらに語ったこともあった。

 現代日本を覆う政治的無関心の背景には、やはり世襲議員の跋扈があると思う。「世の中はそういうものなのだよ」という諦念は、そのまま政治の活力を奪っている。だが、よろず職掌は血筋の継承をもって諒とする考え方が日本社会の根底にあり、それが、かかる風潮を発生・維持せしめてきたのもまた確かであろう。そうした考え方こそ「事大主義」であると思うし、事の真偽は別として、これを日本人的恣意の特徴と捉えた民俗学者・柳田国男の慧眼を、私は認めないわけにはいかないのである。

 私見によると、日本社会の閉塞感の根本原因は、「世の中はそういうものなのだよ」という諦念だと思う。ならば、それを打破するための契機を探らなければならない。そのためには、私たちの心裡に定着した民俗=folkloreを可視化させ、その取捨選択を実行するしか方途はないのではないか。「スジ」への事大主義的仮託の心情もまた民俗なり。その「保護・顕彰」だけが民俗学の役割ではない、と改めて思う。

政治風土のフォークロア──文明・選挙・韓国

室井 康成 著

2023年2月10日

定価 3,500円+税