琉球建国史をめぐる最大の「謎」/吉成直樹

琉球建国史をめぐる最大の「謎」

吉成直樹(『琉球建国史の謎を追って』著者)

 一般に広く知られている琉球国(統一王朝)が沖縄島に形成される過程は次のようなものであろう。

 14世紀後半の沖縄島には、明に朝貢する山北、中山、山南という小国家(それぞれの王は「琉球国山北王」「琉球国中山王」「琉球国山南王」を名乗った)があったが、沖縄島南部の一角を占める佐敷を拠点にしていた思紹、尚巴志の父子が、1406年に中山王武寧を、1416年に山北王攀安知を、1429年に山南王他魯毎を滅ぼし、三山を統一した。

 しかし、上記の過程を裏づける確かな史料は存在しないのである。たとえば、琉球国に伝わるいくつかの正史は、それぞれ国の成り立ちを記すが、食い違いがみられる。思紹、尚巴志の三山統一の過程を、山南、中山、山北の順に滅ぼしたとするか、中山、山北、山南の順とするかの違いがみられるのみならず、三山統一の時期さえも異なっているのである。

 滅ぼす順番を山南→中山→山北とするのが『中山世鑑』(向象賢編、1650年)、『蔡鐸本 中山世譜』(蔡鐸編、1701年)であり、中山→山北→山南とするのは『蔡温本 中山世譜』(蔡温編、1725年)、『球陽』(鄭秉哲ほか編、1743-1745年)である。

 また、統一の時期は、『中山世鑑』『蔡鐸本 中山世譜』では1422年、『蔡温本 中山世譜』では1429年である。

 つまり、現在、通説として流通しているのは『蔡温本 中山世譜』の考えなのである。

 『中山世鑑』は沖縄の伝承にもとづくもの、『蔡鐸本 中山世譜』は『中山世鑑』をもとに『歴代宝案』(琉球国の外交文書を集めた漢文史料)で一部訂正したもの、『蔡温本 中山世譜』は明の正史で同時代史料である『明実録』の琉球関係記事をまとめた『中山沿革志』(1683年。尚貞王の冊封使汪楫編)などをもとに、従来の考えを否定し、新説を唱えたものである。これらの正史は、三山の統一から200年以上の時を経て編纂されたものであることに注意したい。

 利用できる同時代史料は、『明実録』の三山の朝貢記事や冊封記事にほぼ限定される。これらの『明実録』の記事から三山の統一をどのように考えるかというと次のようになる。

 『中山世鑑』の伝承では1402年(洪武35)年に滅んだとされる山南が1429年(宣徳4)まで朝貢記録があり、それまで存続していたと考えられること、山北は1422年(永楽20)まで存続していたとされるが、1416年(永楽14)を最後に朝貢はしておらず、その時には滅んでいたと考えられること、などである。

 しかし、これはあくまで朝貢したのが山南や山北の当事者であった場合に限られ、中山王が山北王や山南王の名義で朝貢していた場合は、こうした見方は簡単に崩れることになる。

 思紹、尚巴志によって三山はどのような順番で征討され、最終的に統一されたのはいつのことだったのか、またそもそも思紹、尚巴志とはどのような人物だったのか。琉球国が立ち上がる過程は闇の中にあると言ってよく、謎なのである。これが、本書のタイトルの「謎」が直接的に意味する内容である。この謎解きは本書に委ねることにしたい。

 しかし、琉球の建国史をあれこれ詮索しなければならないことが物語るように、なぜ建国の過程が記録として残されなかったのか、考えてみればこれこそが大きな謎なのである。本書ではほとんど議論する余裕がなかったが、改めて問題の提起をしておきたい。

 この謎に対して考えうる解答のひとつは、文字で記録を残す習慣がなかったからというものである。15世紀代までの沖縄島では久米村(現在の那覇市の一角)の華人職能集団が残した明への朝貢関係の文書を中心とする外交文書を除けば、琉球社会の内部を窺い知る文字史料は確認されておらず、16世紀はじめまで待たなければならないのである。つまり、琉球国王が発給した辞令書の初出は1523年であり、王府編纂の祭式歌謡集である『おもろさうし』の巻一が成立するのが1531年のこととされる。

 しかし、足利義持と「りうきう国のよのぬし」(思紹に比定)の間で、1414年と1420年に書状がかわされており、「りうきう国のよのぬし」の書状を作成したのが、後の対日外交の担い手になる禅僧たちであったとしても(本書では思紹の時代にはすでに禅僧が対日外交の担い手であった可能性を考えた)、15世紀初頭の段階でまったく記録に残す手段がなかったわけではない。

 三山の朝貢貿易の文書作成や航海にいたるまで、その業務を一手に引き受けていた久米村の華人職能集団も「三山の統一」にまったく関心があるようにみえない。単に、朝貢貿易を中心とする業務の事務的、技術的側面だけをこなすのが職務と認識していたとすれば記録に残さなくともおかしなことではないかもしれないが、華人職能集団の中からは王相(国相)として内政にも関与したと考えられる者もいたことを考えれば記録に残さなかったのは、やはり不思議な気がする。

 当事者を含め、これほどまでに誰も記録に残そうとしなかったのはなぜだろうか。考えうるとすれば、「三山統一」とは、われわれが考えるような「国盗り」をイメージする統一国家の形成を目指したのではなく、それとは異なる意味を持っていたからではなかろうか。意図的に残そうとしなかったというより、そもそもそのような意識を持ちえなかった可能性である。その点について踏み込んで答えることはできないが、本書で論じたように琉球国が交易者たちによって形成されたことと密接に結びついているのではないか、というのが現在の見通しである。

  * * *                   

 最近、拙稿を引用していただくことがある。本書を刊行しようと考えた大きな理由のひとつは、引用していただくこと自体、ありがたいのだが、筆者の意図と異なる意味合いで引用されることがあり(筆者の文章力の問題なのだが)、これまでの議論の簡便な見取図を書いておく必要を感じたためである。おおむね2010年以降の仕事についてである。もちろん、丁寧に書き込んでいるわけでもなく、論旨だけという内容になったが、これまでの議論の修正点を含め全体の見取図としては見通しのよいものになったのではないかと思っている。もちろん引用にあたっては元の拙稿にも当たっていただきたい。

琉球建国史の謎を追って──交易社会と倭寇

吉成直樹 著

2022年10月6日

定価 2,000円+税

琉球建国史の謎を追って──交易社会と倭寇


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琉球建国史の謎を追って新刊
交易社会と倭寇

吉成直樹 著

定価:本体2,000円+税

2022年10月6日刊
四六判並製 / 208頁
ISBN:978-4-909544-27-8


前著『琉球王国は誰がつくったのか』を中心に、著者のこれまでの琉球史論を要約し、新見解を増補した決定版!
南北朝・元明交代期という日中動乱の時代の狭間に、琉球王国はどのようにして立ち上がったのか。
また、その建国史は後の王国にどのような痕跡を残したのか。
確実な史料のない、謎に包まれた王国成立の過程に光をあて、琉球史に新たな展望をひらく。


目次
はじめに

第一章 グスク時代以前
第二章 城久遺跡群の衝撃とグスク時代の幕開け
第三章 交易ネットワークの形成と変容 交易社会への躍動
第四章 大型グスクの造営過程
第五章 交易者たちの国家形成 倭寇の時代
第六章 「三山」の関係と性格
第七章 三山の統一と思紹、尚巴志の出自
第八章 十五~十六世紀の日琉関係
結びにかえて

補論 史料としての『おもろさうし』


引用・参考文献
あとがき
索引


著者
吉成直樹(よしなり・なおき)

1955年生。秋田市出身。元法政大学教授。理学博士(東京大学)。地理学、民俗学。
『琉球の成立──移住と交易の歴史』(南方新社、2011年)、『琉球王権と太陽の王』(七月社、2018年)、『琉球王国は誰がつくったのか──倭寇と交易の時代』(七月社、2020年)、『琉球史を問い直す──古琉球時代論』(共著、森話社、2015年)ほか

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

イーハトーブ風景学──宮沢賢治の〈場所〉


試し読み

イーハトーブ風景学新刊
宮沢賢治の〈場所〉

岡村民夫・赤坂憲雄 編

定価:本体3,200円+税

2022年8月18日刊
四六判上製 / 288頁
ISBN:978-4-909544-26-1


風景のフィールドワーカー
猫がしゃべり、鉄道が銀河を走る幻想的なイーハトーブの物語には、しかし、賢治が歩き、そして生きたリアルな土地の刻印が穿たれている。風景との共同作業によってみずみずしく記述されたテクストを、〈場所〉をキーワードに7人の著者が読み解く。
執筆陣は、民俗学者・赤坂憲雄、詩人・吉田文憲が主宰していた賢治研究会「風信社」のメンバーたち。


目次
0 なぜ〈場所〉から宮沢賢治を読むのか/岡村民夫

1 原風景としての丘のうえ/赤坂憲雄
コラム① 種山ヶ原/平澤信一

2 〈上の野原〉と〈さいかち淵〉──「風の又三郎」における場所について/吉田文憲
コラム② さいかち淵/岡村民夫

3 「風の又三郎」の存在/不在──《三年生》の問題から《誰ともなく……叫んだもの》へ/平澤信一
コラム③ 遠野/安智史

4 風景と存在──〈川〉という場所/澤田由紀子
コラム④ 北上山地の石灰岩/岡村民夫

5 近代化する山中異界──山男、山猫(たち)と、馬車別当をめぐって/安智史
コラム⑤ 花巻・盛岡の郊外/森本智子

6 賢治の〈郊外〉 まなざしのせめぎ合う場所/森本智子
コラム⑥ 下根子桜の家/安智史

7 イーハトーブの装景──プロセスとしての賢治庭園/岡村民夫
コラム⑦ 花巻の温泉/岡村民夫

あとがき
初出一覧


編者
岡村民夫(おかむら・たみお)
法政大学教授。表象文化論。
著書に『旅するニーチェ──リゾートの哲学』(白水社、2004年)、『イーハトーブ温泉学』(みすず書房、2008年)、『柳田国男のスイス──渡欧体験と一国民俗学』(森話社、2013年)、『立原道造 故郷を建てる詩人』(水声社、2018年)、『宮沢賢治論 心象の大地へ』(七月社、2020年)ほか。

赤坂憲雄(あかさか・のりお)
学習院大学教授。民俗学、日本文化論。
『東西/南北考──いくつもの日本へ』(岩波新書、2000年)、『岡本太郎の見た日本』(岩波書店、2007年)、『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫、2009年)、『ナウシカ考』(岩波書店、2019年)ほか。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

民俗学のまなざしと麦の座標/野本寛一

民俗学のまなざしと麦の座標

野本寛一(『麦の記憶』著者)

ビール麦や、健康食品・地域興こしの素材とされるモチ麦、農協がかかわる一部の小麦栽培などを除いて、この国の風景の中から主食としての麦栽培にかかわる種々の営みや耕地に育つ麦の姿が消えて長い時が流れた。麦踏みも、麦秋の景観も、麦コナシにいそしむ人びとの姿も総じて過去のものとなってしまった。それは、日本人が米に次ぐ穀物として主食の一角に加え、その増産に努めてきた麦である大麦を素材とした麦飯が食卓から消えてしまったからである。また、小麦系の食べものは現今でも多食されてはいるものの、その原料の小麦は90%を輸入に頼っているからだ。食糧構造の中における大麦系の麦の比重は昭和三十年前後から始まった高度経済成長の歩みとともに軽くなり、昭和四十八年の石油危機のころにはもう麦飯が食卓にのぼることはなかった。

「麦の記憶」をふり返り、反芻すべきだと考えた理由はいくつかある。飽食の時代と言われ、グルメブームの煽動に乗り始めてからも久しい。一方厖大な量の廃棄食品・食品ロスが批判の対象になってからも根本的な改善はなされていない。過剰に用意された節分の恵方巻の残余はどこへ行くのか。クリスマスケーキにしても同様である。コロナ禍における需給不全は別途として、これまでの廃棄食物の多さは世界の心ある人びとから顰蹙を買ってきた。しかも、こうした状態が、カロリーベースでの食料自給率三七%という極めて危い中で行われているのである。厖大な債務にまみれる中での身の丈に合わぬ浪費、華美なるものへの単純な願望も省察されなければならない。

高度経済成長期以前、この国の子供たちは皆、一粒の米、一粒の麦を粗末にすることを強く戒められて育ってきた。昭和初期までは、稲の籾摺り作業を自家で行うのが一般的だった。籾摺り作業をすると、納屋の土間などに米や、割れた米、未熟の米がこぼれる。このような米を丁寧に拾い集めて竪臼・横杵でハタいて(叩いて=搗いて)粉化し、その粉を捏ねてから蒸し、「ネコ」と呼ばれるカマボコ型の棒の形に整え、これを切って食べる方法があった。叩くところから静岡県ではこの餅を「オハタキ」と呼んだ。オハタキにする米は粳米・屑米が多かったのでオハタキは灰色をしていたし、糯種ではないので粘着力がなかった。静岡県藤枝市蔵田の藤田賢一さん(明治三十五年生まれ)は籾摺りの日の拾い米で作ったハタキモチのことを「ツボモチ」と称して臼や神棚に供えて、家族も食べたと語る。ツボモチとは「粒餅」の意だと考えられるが「土穂餅」と見る地方もある。藤田さんは、「師走川渡らぬ先にツボモチを」という口誦句を伝えていた。「籾摺りは十一月中に終えよ」ということである。また、「ツボモチをよそ(他家)へやるとツボモチが泣く」とも伝えていた。「ハレの餅」ではない、「始末」「倹約」の餅、食素材を大切にする褻の餅なので、家族で内々に大切に食べるものだとする心意が見られる。米粒・麦粒などの穀類を一粒たりとも無駄にしてはいけないという伝統が儀礼として定着していたのである。

飽食の中に生きる現代人は手のとどく過去の人びとの食べものに対する心がまえを忘れてはならないのである。本書の中で詳述する通り、麦という穀物は、刈り取り以後、麦コナシをして、精白する。飯にするのにも手がかかる。その間の手間隙には想像を絶するものがある。多くの穀物の中で口に入るまでにかけなければならない労力の多さは、何と言っても大麦(皮麦)が一番である。多くの手間と時間をかけてやっと食べることができるのだ。そうした苦労に支えられて命をつないできた麦のことを忘れ去るわけにはゆかないのである。もとより今、こぞって麦飯を食べよ、などというわけではない。麦とともにあった心を失ってはならないのだ。

平素は麦飯か糅飯で、米の飯は盆正月か人生儀礼の折にしか口に入らない時代が長かった。静岡県の大井川中・上流域は知られた茶産地で、お茶の季節には下流部の水田地帯から季節労務者として多くの茶摘み女や茶師と呼ばれる焙炉師が山のムラムラに入った。茶摘み女には麦飯でも、技能者である茶師には米の飯と夕飯酒と呼ばれる酒が付けられるのが一般的だった。静岡県焼津市藤守の加藤正さん(明治三十二年生まれ)は焙炉師として大井川中流域の山のムラムラで茶を揉んでまわった人である。加藤さんは次のような茶摘み唄を記憶していた。

茶揉みゃ米の飯正月か盆か 主もやりたや川根路へ
お茶師ゃ米の飯正月か盆か 親の年忌か嫁入りか

「銀舎利」とも俗称される純白の米の飯が庶民にとっていかに特別なものであったかがわかる。

田植、春蚕あげ、麦刈りが一時に降りかかる農繁期の重い仕事をみごとに為しとげて来た人びと、夜、大麦をエマしておき、朝それを米と混ぜて炊き直し、大家族の飯を用意し続けた人びと、麦コナシで芒の刺激と埃と汗が混じって押し寄せる痒さに耐えた人びとなどの多くは、幽明境を異にしてしまった。たとえ十分なものでなくとも、断片のごときものであったとしても、今記しておかなければ、麦にかかわる多様な苦渋と、その中でも味わったであろう充実感などは永久に忘れ去られてしまうのである。私には僅かな麦の記憶があるだけなのだが、それをもとにして各地の方々から麦にかかわる多くの体験と伝承を聞いてきた。それは、体系的、計画的なものではなかったのだが今となっては貴重である。書きとどめるべきだという思いが強く湧いた。

近代以降もこの国の人びとは己が命を支える主食食物としての麦に大きく依存してきた。その麦に対して日本民俗学のまなざしは決して細やかで、温かく、行きとどいたものだとは言えなかった。それでも、これまで、麦の様々な側面、麦にかかわる様々な営みの一定の部分に光を当て、優れた成果を示しているものも多々ある。それらの多くについては本書の各章で引用または例示させていただいている。多くの成果の中でも、埼玉県内の事例を扱った大舘勝治氏の「麦作」は緻密・精細であり、総合的でもあって学ぶところが多かった。

こうした成果に学びながらも、「麦」と「麦に関する多くの営み」を民俗学の視座から全国的に眺め、総合的にまとめたものは見られないように思われた。なぜこのような状態に至ったのであろうか。その要因の一つは、日本人の食の中核に位置したのが米であり、それを生み出す営みが水田稲作だったからである。そして、米の日常的な食法は「飯」という形態であり、「麦飯」という言葉が纏っている通り、米に麦を混ぜた飯は、晴れの日に食される「白米の飯」に対して、「褻の飯」「粗末な飯」として位置づけられてきたのだった。その上、晴れの日には糯種の米によって餅が搗かれ、これが年中行事や人生儀礼の祝いの食物となり、神饌ともなり、儀礼食ともなってきた。麦の中の小麦は粉化の後様々に加工されて儀礼食にもなったのだが、それらといえども米の餅と対等とは言い難い部分があった。「麦飯」に象徴されるように、麦は常に米の陰に位置し、従属する位置にあり、麦は米を補足するものと見為されてきた。稲(米)は夏作で、麦は冬作であるのだが、人びとは、長く、稲を表作、麦を裏作と称してきた。こうした風潮のもとにあればこそ、麦と日本人の関係を総合的に探究し、まとめてみようという動きが鈍かったのである。

また、民俗学およびその周辺に、起源論・伝播論、特定の栽培物を象徴的指標とする文化論的なものを提示する流れが風靡した時代があった。当然、そうした探究の意義は深いものではあるが、それらは、一国民俗学には荷が重すぎる部分もあり、方法論としてなじまないところもあった。学際的共同研究や国際的共同研究において初めてそれらは可能となる。日本民俗学はまず、この国の民俗を具さに見つめ、社会環境、自然環境や時代変容の中で、その特色を確かめ、生活者とのかかわりを学ぶところから始めなければならないのである。

例えば里芋をとりあげるとすれば、早生、中生、晩生、さらには茎のみを食べる芋など、一体里芋にはどのような種類があるのかを知らなければならない。褻の生活の中でどのように季節適応をし、どの時期にどの種類の芋を主食的に、どのように調理して食べてきたのかを知らなければならない。晴れの食とされた「芋餅」に使われた里芋はいかなる種類で、芋餅に混合物はあったのかなかったのか、晴れの食として芋餅を食べる日、芋をそのままで食べる日は何の日だったのか、里芋の種類と栽培環境──定畑か、焼畑か、水田か、そして里芋の貯蔵法はいかなるものだったのか、里芋以外の主食系食物には何があったのか、──こうした、暮らしに密着した実態から離れた文化論はどうしても観念的になり、暮らしの襞とも言うべき庶民の苦渋や細かい実態を捨象してしまうのである。起源論・伝播論も同じくである。

麦が総合的にとりあげられてこなかったのは、それが常に脇役だったことにより文化論のごとき晴れやかな舞台に登りにくかったということも考えてみなければならない。この国で第一次産業系の仕事に携わってきた人びとは、一人で多くの生業要素にかかわることが多く、身近な自然の中から様々な食素材を獲得し、耕地からもじつに多種に及ぶ食素材を得ていたのである。単一職業的ではなく、「生業複合的」だったのだ。麦栽培もまたその中の一つであった。

かつて属目の風景の中にあった麦は視界から消えた。今、まだこの国の中にはイロリやオクドさんから電子レンジまでを体験し、山中で暮らし塩蔵魚さえ稀とした者で、かつては思いも及ばなかった冷凍食品を容易に口にできるようになった者もいる。生活様式が激変し、それが価値観まで変える現今である。社会生活が激変する時代には、民俗学もその草創期の方法のみに頼っているだけでは道は拓けない。多様な模索があってよいはずだ。社会生活の激変、それに応じて暮らしの細部まで変容・変質してゆく現今なればこそ、個々の民俗や人びとの暮らしぶり、その周囲の景観や栽培作物の消長や変転を克明に記しておく必要が生じてくる。それは民俗学の主要な責務の一つであるはずだ。民俗学は微細な変容に敏感でなければならない。私は、この社会変容にともなう民俗の消滅や変化にも目を注いできたつもりではあるが、個人の力には限界がある。

麦の民俗を総合的に見つめる仕事が稀少である理由の一つには、民俗を学ぶ者の主題や関心が細分化されてきたこともかかわっている。食物としての麦とその食法、栽培作物としての麦の栽培技術、麦にかかわる農耕具・穂落とし具・脱粒具(民具)、麦作にかかわる儀礼、麦栽培や麦コナシにかかわる労働慣行、麦の労働にかかわる民謡、などの側面がある。さらに、地域定点的モノグラフなどもある。分野限定、地域限定で対象物に当たれば精度はあがるが、部分を掘っただけでは麦と人との多様なかかわりが見えてこない。対して、例えば鳥瞰的、総合的に「麦」を描こうとすれば、どうしても粗さがつきまとう。麦の民俗を描き出そうとすれば、農学の成果や歴史学、文化人類学も学ばなければならなくなる。容易なことではない。

気圧され、躊躇し、手を拱いている間に数多の細かい麦の記憶が消えてしまう。麦とともに生きた人びとが幽明境を異にしてしまう──。ある種の危機感を抱き、手のとどく過去の麦に対して遅蒔きながら探索の一歩を踏み出した。本書の骨格はほぼ目次の章立てのごときものであるが、時には麦そのものからはやや距離のあるものもとりあげている。

※本文章は、『麦の記憶』の「序章」より一部を抜粋したものです。

麦の記憶──民俗学のまなざしから

野本寛一 著

2022年6月23日

定価 3,000円+税

麦の記憶──民俗学のまなざしから


試し読み

麦の記憶新刊
民俗学のまなざしから

野本寛一 著

定価:本体3,000円+税

2022年6月23日刊
四六判上製 / 352頁
ISBN:978-4-909544-25-4


麦と日本人
多様な農耕環境の中で「裏作」に組み込まれ、米を主役とする日本人の食生活を陰ながら支えてきた麦。
現在では失われた多岐に及ぶ栽培・加工方法、豊かな食法、麦の民俗を、著者長年のフィールドワークによって蘇らせる。


目次
序章 麦に寄せて

Ⅰ 麦の栽培環境
一 海岸砂地畑
二 斜面畑と段々畑
三 畑地二毛作と地力保全
四 焼畑と麦
五 牧畑と麦
六 水田二毛作の苦渋─田代・麦代の循環─
七 水田の湿潤度と裏作作物
八 麦と雪
九 沖縄の麦作
十 麦作技術伝承拾遺

Ⅱ 麦コナシから精白まで
一 麦焼きから精白まで─奈良県天川村栃尾の実践から─
二 穂落としの技術
三 脱粒
四 麦の精白

Ⅲ 麦の食法
一 大麦・裸麦の食法
二 小麦の食法

Ⅳ 麦の豊穣予祝と実入りの祈願

終章 麦・拾穂抄

あとがき


著者
野本寛一(のもと・かんいち)

1937年 静岡県に生まれる
1959年 國學院大學文学部卒業
1988年 文学博士(筑波大学)
2015年 文化功労者
2017年 瑞宝重光章

専攻──日本民俗学
現在──近畿大学名誉教授

著書──
『焼畑民俗文化論』『稲作民俗文化論』『四万十川民俗誌──人と自然と』(以上、雄山閣)、『生態民俗学序説』『海岸環境民俗論』『軒端の民俗学』『庶民列伝──民俗の心をもとめて』(以上、白水社)、『熊野山海民俗考』(人文書院)、『山地母源論1・日向山峡のムラから』『山地母源論2・マスの溯上を追って』『「個人誌」と民俗学』『牛馬民俗誌』『民俗誌・海山の間』(以上、「野本寛一著作集Ⅰ~Ⅴ」、岩田書院)、『栃と餅──食の民俗構造を探る』『地霊の復権──自然と結ぶ民俗をさぐる』(以上、岩波書店)、『自然と共に生きる作法──水窪からの発信』(静岡新聞社)、『生きもの民俗誌』『採集民俗論』(以上、昭和堂)、『自然災害と民俗』(森話社)、『季節の民俗誌』(玉川大学出版部)、『近代の記憶──民俗の変容と消滅』『井上靖の原郷──伏流する民俗世界』(以上、七月社)、『自然暦と環境口誦の世界』(大河書房)、『民俗誌・女の一生──母性の力』(文春新書)、『神と自然の景観論──信仰環境を読む』『生態と民俗──人と動植物の相渉譜』『言霊の民俗誌』(以上、講談社学術文庫)ほか

書評・紹介

  • 2022-07-30「日経新聞」
    評者:神崎宣武(民俗学者)
  • 2022-09-25「読売新聞」
    評者:梅内美華子(歌人)

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)