『同人文化の社会学』を誰に届けるのか──研究書の想定読者をめぐって/玉川博章

『同人文化の社会学』を誰に届けるのか──研究書の想定読者をめぐって

玉川博章(『「同人文化」の社会学』編者)

『同人文化の社会学』が発行された。その表紙は非常にポップというかカジュアルである。この書影からは、新書ほど手に取りやすく気軽に読める本とはいかずとも、いわゆる専門書の雰囲気を崩して、手に取る範囲を広げたいという思いが見て取れるだろう。というか、版元編集者の意図はそうだ(と思う)。

その目的を否定する気はないが、一方で「同人文化」というテーマを扱う本書が、それを達成することが難しいのも事実である。テーマが同人誌や同人ソフト、同人誌即売会という「やわらかいもの」、「サブカルチャー」だから、多くの人に手に取ってもらえる……というのは幻想である。

本書はあくまで専門書であり研究書である。大学生向けの「教科書」ですらない。部数減に直面した昨今の学術系出版社が学部生向け「教科書」の出版を進める傾向もあるが、本書はそのような用途は想定していない。大学の授業で利用したとしてもゼミや少人数の専門科目、このテーマで卒論を書く学生向けだろう。基本的には大学院生以上の研究者、ないし裾野を広げても学部3~4年生が想定読者である。その上で、同人文化に関心のある人が読者に入ってくる。

専門書、学術書はある程度の前提知識を必要とする。その学問分野の知識や、対象の前提知識等々。同人文化を社会科学の枠組みで分析する本書は、その対象である同人文化への関心・知識と、社会科学の学術的関心・知識がある人を想定読者としている。もちろん、前者と後者の知識が両方揃っていなくても良いし、知識はなくとも関心だけでも良い。むしろ、2つの知識を持った上で本書を読むのは、既にこの分野で研究をしてきた研究者だけだろう。普通に考えて、その人数は序章でレビューした研究者となり、非常に少ない。学術ジャーナルではなく、書店で販売されるのだから、より広い読者に届けたいという思いはある。だが、学術書として成立させる以上、同人誌即売会など対象に対する知識や、分析が拠って立つ学問的知識を懇切丁寧に説明することはできない。コミケの名前は知られるようになったとはいえ、その実態は誰もが知っている常識でもない。でも、インターネットや一般書で同人関連の情報源は事欠かないし(むしろ、ネットにない、より深い情報を本書ではインタビューやフィールドワークから提供しており、ネットにあることは「前提」ともいえる)、社会学やメディア論、ファン研究などについての学術的知識も、深く知ろうと思えば原典に当たるしかない。

私自身、大学でアニメをテーマとした講義をしたこともあるが、このような科目はアニメというとっつきやすい題材だから入門的と思われるかもしれないが、実際は分析枠組みとなる学問的な教養があった上でアニメを題材に議論をする発展的科目と考えるべきである。本書も同様に、身近な同人文化から社会学を説明する入門書ではなく、同人文化を考察する研究書である。専門書である以上、ハイコンテクストな書物である。

本書では五人の執筆者が同人文化の様々な姿を描き、同人文化について様々なアプローチがあることを示した。同人文化に関心のある研究者や隣接領域の研究者、文化社会学やメディア研究の研究者が本書を読んで、ここから多様な研究が広がって欲しいと思っている。また同人文化に接している、関心のある者が、それを理解し考えるきっかけになればと思う。このコラムで触れているように、実は読者の幅は狭いと編者自身は考えているが、それを打ち破って様々な読者の手に届けば嬉しいことこの上ない。個々の関心に応じて、本書以外の資料や先行研究、事例を参照しながら読み進めて頂ければ幸いである。

素朴に考えよう/中村三春

素朴に考えよう

中村三春(『物語主義』著者)

 本書『物語主義 太宰治・森敦・村上春樹』の巻末に、筆者の主要著作年譜を付してある。その中に、『物語の論理学 近代文芸論集』(2014年2月、翰林書房)のタイトルが見える。同書と本書は、物語を主要なコンセプトとした点において共通し、その起点としてロラン・バルトの「物語の構造分析序説」や野家啓一の『物語の哲学』を置いたことまで同じである。その意味で本書は同書の一種の続編としての位置を占めることになるのだが、一つ大きな違いがある。

 同書では、中上健次の『風景の向こうへ』などで示された「物語」と「文学」、あるいは伝統的な「物語」と近代的な「小説」とを対比する理論を批判的に継承している。中上は、伝統的な「物語」が共同体の〈法=制度〉の定型的な表現であり、「文学」が自我の告白中心のやはり制度的な所産であったのに対して、「小説」を様々な「交通」によって両者の定型性・制度性を打ち破るようなジャンルとして定義した。しかし同書において筆者は、物語の一貫性の観点から見れば、伝統と近代との間の切断線は明瞭ではなく、むしろそれらはいずれも物語における〈変異〉(mutation / variation)の多様なあり方にほかならないのではないかと認め、その観点から、明治より現代に至る物語のテクストを論じたのである。

 一方、このような、いわば歴史的な荷重を負った物語観に対して、本書における物語のとらえ方は、至ってシンプルなものである。それはすなわち、〈物語は自らを見せつけ、読ませようとする〉こと、あるいは、バルトの言葉を借りれば、物語は〈物語の誇示〉そのものを基本的な目標とする、ということである。〈物語は本質に先立つ〉とは、そのことを意味している。

 もっとも、『物語の論理学』においても、〈物語の誇示〉の方略として、物語における〈誘惑〉と〈差異化〉を筆頭に挙げているから、やはり両者は連続するものなのだが、とにかく本書が基底においたのは、《素朴に考えよう》ということに尽きる。その理由は、近来、物語論が盛んに行われる反面、むしろ論理構成が大げさになり過ぎることにより、本来の物語のあり方が見失われる危惧があると考えたからである。

 この見方に応じて、本書における物語の定義もまた、何にせよ物が語られればそれは物語であり、語ること、および語られたものはすべて物語(narrative)であるとする最小の(ミニマルな)記述としている。たとえば、野家が歴史や科学も文芸とともに物語に包括してとらえたことを思えば、小説・戯曲だけでなく詩もまた物語なのである。それらはすべて、それ自体の〈誇示〉をすることを目標として、あるいはそれを前提として、その内容や構造が設(しつら)えられているのである。その発生でも、それによる帰結でもなく、そこにある物語、あるいは、物語がそこにあることそのものを凝視すること。従って本書の発想法は、現象学・記号学・解釈学のそれに近いだろう。

 二部構成の本書において、「Ⅰ 物語と虚構の文芸学」に収めた4章は、それぞれ虚構と物語の関係、作者の理論、コンテクストの理論、そしてテクストと論述における例外性の理論を扱っており、いずれも文芸理論では古くて新しい問題を論じたものである。これは筆者の初期の単著である『フィクションの機構』(1994年5月、ひつじ書房)の理論の、取りあえずの完結編と考えている。続く「Ⅱ 小説と映画の物語」の全10章は、『白樺』派、芥川龍之介、太宰、森、村上、そして小川洋子の作品と、またそれを原作とした映画について検討したものである。それぞれの論述の過程において、小説の定型や再帰性、語りや文体、翻案や映画化などの第二次テクスト性、物語の公理やフィクション性との関わり、そして何よりも、物語主義の観点から、それらが自らをどのように〈誇示〉しようとしているかに重点を置いて論じたのである。

 これらのテクスト分析には様々なテクスト理論が援用されているが、根底にあるのは、ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』や『哲学とその他の芸術・学問における新たな構想』(邦題『記号主義 哲学の新たな構想』)などによって拓かれた分析美学の手法である。これは、思考上の夾雑物を一切排して、物語がそこにあることに注目するための理論として、最適な解を与えてくれる。『世界制作の方法』も併せて、これまで筆者の物語やテクストに関する考え方を支えてくれたのがグッドマンの思想であった。これは『フィクションの機構』以来、変わっていない。本書では具体的には、リアリズム概念については『芸術の言語』に、作品の存在様態や第二次テクスト性については『新たな構想』に負っている。

さて、『物語の論理学』と本書、さらにそれ以外のこれまでの著書において、小説テクストと物語の繋がりについては継続的に論じてきた。ただし、上に書いたような、〈詩もまた物語である〉という主張は、大方にとってはかなり奇異に響くものだろう。本書をまとめた後の次の課題としては、この、物語と詩との結びつきについて、理論的かつ歴史的に検証することである。これはまた、前著である『ひらがなの天使 谷川俊太郎の現代詩』(2023年2月、七月社)で論じた内容の延長線上に現れた課題でもある。詩もまた物語なのだ。筆者はこの後、この問題に注力しようと考えている。

物語主義──太宰治・森敦・村上春樹

中村三春 著

2024年2月24日

定価 3,400円+税

「同人文化」の社会学──コミケをはじめとする同人誌即売会とその参加者の織りなす生態系を描く


試し読み

「同人文化」の社会学
コミケをはじめとする同人誌即売会とその参加者の織りなす生態系を描く

玉川博章 編

定価:本体2,600円+税

2024年3月5日刊
四六判並製 / 320頁
ISBN:978-4-909544-35-3


同人界隈の日常的実践
頼まれたわけでもないのにマンガを描き、ゲームを作り、それを自主制作物として商業流通によらず誰かのもとに届ける。
こうした同人活動に着目し、それを支える同人誌即売会や印刷所なども含めて「同人文化」としてとらえ、その様態を描き出す。


目次
序章 「同人文化」の研究にむけて──関連研究レビューからの視座/玉川博章

第1章 中小規模即売会からみる同人文化──主催団体代表・運営スタッフへのインタビューから見えてくるもの/玉川博章

第2章 メディア融合時代における参加型文化──コミティアのスタッフを実例として/ヴィニットポン・ルジラット(石川ルジラット)

第3章 同人サークルの制作動機とその変化──デジタル化とグローバル化の時代の同人ゲーム制作者に注目して/小林信重

第4章 同人誌業界のオープンプラットフォーム化──営利企業の動きを中心に/飯塚邦彦

第5章 コロナ禍での同人誌即売会の経験──エアコミケは「本物」の即売会になったか?/杉山怜美

付録 コミックマーケット35・40周年調査報告/玉川博章・小林信重

あとがき/玉川博章


編者
玉川博章(たまがわ・ひろあき)
日本大学、武蔵野美術大学等非常勤講師。文化研究、メディア論。
共編著に『マンガ探求13講』『マンガ研究13講』、共著に『オタク的想像力のリミット──〈歴史・空間・交流〉から問う』『メディア・コンテンツ産業のコミュニケーション研究──同業者間の情報共有のために』『雑誌メディアの文化史──変貌する戦後パラダイム』など

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

物語主義──太宰治・森敦・村上春樹


試し読み

物語主義
太宰治・森敦・村上春樹

中村三春 著

定価:本体3,400円+税

2024年2月24日刊
四六判上製 / 320頁
ISBN:978-4-909544-34-6


物語は自らを生成すると同時に媒介される。虚構・小説・映画を理論的に横断し、メタフィクション、語りの変異、逸脱するメタファーなど、テクストに入り込む雑音の軋みに耳を澄ませる。
芥川龍之介・太宰治・森敦・村上春樹・小川洋子らの小説やその映画化作品を主に論じる。


目次

はしがき

Ⅰ 物語と虚構の文芸学
第1章 虚構論と物語論──イーグルトンとウォルトンの虚構理論から
第2章 作者の理論・素描──加藤典洋・竹田青嗣のテクスト理論から
第3章 テクスト・断片・コンテクスト──三浦玲一のグローバル文化理論から
第4章 雑音調〈例外状態〉の文芸学──竹内敏雄の現代美学理論から

Ⅱ 小説と映画の物語
第1章 蝕まれるべき友情──小説構造から見た『白樺』派の小説
第2章 芥川龍之介のメタフィクション
第3章 太宰治におけるテクスト様式の成立──初期小説の研究
第4章 太宰治と複合的小説構造──作品集『女の決闘』
第5章 太宰治『斜陽』とチェーホフ『桜の園』──ファルスのオリジナリティ
第6章 森敦「月山」の小説と映画──〈境界〉などというものはない
第7章 物語の変容──森敦『われ逝くもののごとく』と「ハーメルンの笛吹き男」
第8章 村上春樹の小説と〈メタファー〉──『海辺のカフカ』と『騎士団長殺し』
第9章 村上春樹の小説における戦争──『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』『騎士団長殺し』と映画『ドライブ・マイ・カー』
第10章 現実性の境界事象──小川洋子『原稿零枚日記』


あとがき
初出一覧
索引→公開中
主要著作年譜


著者
中村三春(なかむら・みはる)

1958年岩手県釜石市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退。博士(文学)。北海道大学大学院文学研究院教授。日本近代文学・比較文学・表象文化論専攻。著書に『〈原作〉の記号学 日本文芸の映画的次元』、『接続する文芸学 村上春樹・小川洋子・宮崎駿』、『ひらがなの天使──谷川俊太郎の現代詩』(以上、七月社)、『フィクションの機構』1・2、『新編 言葉の意志 有島武郎と芸術史的転回』、『修辞的モダニズム テクスト様式論の試み』、『〈変異する〉日本現代小説』(以上、ひつじ書房)、『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』、『花のフラクタル 20世紀日本前衛小説研究』、『物語の論理学 近代文芸論集』(以上、翰林書房)、編著に『映画と文学 交響する想像力』(森話社)など。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

ブラントンの灯台を巡る旅/稲生淳

ブラントンの灯台を巡る旅

稲生淳(『明治の海を照らす』著者)

 私が生まれ育った串本町には樫野埼灯台と潮岬灯台があるが、これらの灯台は地元の人間にとっては遠足の定番コースといった存在で、特別な感情を抱いたことはなかった。しかし、20年前、所用で東京に行った帰り、三浦半島にまで足を延ばした折、たまたま立ち寄った観音埼京急ホテルでもらった小冊子「なぎさ」(京浜急行電鉄広報誌)の中に「横浜公園とブラントン」について書かれた一文を見つけた。ブラントンという名前に、どこか聞き覚えがあり調べてみると、樫野埼と潮岬の両灯台を造ったイギリス人技師であることがわかった。彼はスコットランド出身で明治政府が雇った最初の外国人だった。

 それまでに私はスコットランドを2度訪れたことがあり、エディンバラやインバーネスの都市以外にも、レンタカーでグレートブリテン島北東端のジョン・ノ・グローツやスカイ島にも足を伸ばしたが、灯台は一つも見てこなかった。ブラントンについて知るまでは、スコットランドが灯台先進国であり、我が国の灯台建設に多くのスコットランド人が関わっていたことなどを知る由もなかったのである。それ故に、ブラントンを知ってからは、上京する度に、横浜開港資料館などで、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』や『ファー・イースト』などの外国雑誌に、灯台やブラントンに関する記事が掲載されていないかどうか調べたりした。

 また、ブラントンが造った各地の灯台にも足を運んだ。犬吠埼灯台、剱埼灯台、石廊埼灯台、安乗埼灯台、樫野埼灯台、潮岬灯台、友ヶ島灯台、和田岬灯台、江埼灯台、部埼灯台、六連島灯台、角島灯台、伊王島灯台などである。フランス人技師ルイ・フェリックス・フロランが造った野島埼灯台、品川灯台(博物館明治村内に保存)、観音埼灯台、城ヶ島灯台も訪ねた。

 角島灯台を初めて訪問したのは1999年3月末のことである。角島大橋が架かる以前で、特牛港から連絡船に乗って渡った。灯台には、定期点検のため萩航路標識事務所の職員の方々が訪れていた。職員の方々のご厚意で灯台内部を見学させていただくことができ、レンズの置台にスティーブンソン社のプレートを見つけた時には宝物を発見したような気分だった。

 部埼灯台には門司からタクシーをチャーターして行ったが、道中、運転手から「僧清虚」の話を教えてもらった。伊王島灯台に行った際は時間に余裕がなく、伊王島の桟橋からレンタサイクルで灯台のある所まで坂道を駆け上った。六連島には下関の竹芝桟橋から連絡船で行った。小さな島ゆえに店もなく、空腹を紛らわせるために手持ちのお茶を飲みながら、港で帰路の船を待った。

 灯台は半島や岬、離島にあるため、灯台巡りにはかなりの不便も覚悟しなければならないが、本州最南端で生まれ育った私には「端っこ」を目指す習性があるのかもしれない。ちなみに、世の中には「先端愛好家」というべき人々がいて、彼らを「端から端まで族(end to end race)」というそうだ。イギリスでは、南西端のランズ・エンドからスコットランド北東端のジョン・ノ・グローツ間は、グレートブリテン島で最も長い距離となるため、自転車や徒歩の出発地点及び到着地点として親しまれている。イギリスで「フロム・ランズ・エンド・トゥ・ジョン・ノ・グローツ(from Land’s End to John o’ Groat(‘)s)」と言えば、「究極の旅路」「かなりの距離」という意味だそうだ。

 日本最東端の納沙布岬灯台から九州本土最南端の佐多岬灯台(灯台は大輪島にあるのだが)まで、ブラントンの灯台を巡る旅に出かけてみるのもおもしろいのではないだろうか。

明治の海を照らす──灯台とお雇い外国人ブラントン

稲生 淳 著

2023年11月28日

定価 3,200円+税