《悲しきマングース》に込められた沖縄の近代とその後/三島わかな

《悲しきマングース》に込められた沖縄の近代とその後

三島わかな(『メディアのなかの沖縄イメージ』編者)

畑のなかにうずくまる マングースの悲しみは 空の月さえわからない ♪

 この歌詞は、《悲しきマングース》(作詞:前史郎、作曲:中村和)の歌い出しの一節。本書の第1章でも登場するNHKのテレビ番組「みんなのうた」のオリジナルソングとして1979年12月~1980年1月に放送され、ハブ被害に悩まされた近代沖縄社会へマングースが導入された史実にもとづく歌である。放送当時、9歳で小学校3年生だった筆者の記憶にも、ちょっぴりセンチメンタルな曲調とアニメーションで独特な動きをするマングースのもの悲しい表情も相まって、この歌は鮮烈さをもって刻み込まれる。そして、この歌は次のようにつづく。

インドはデカン高原を 遠く離れて来たけれど ここは沖縄ハブの島 ♪

 マングースと沖縄との関係は、今から115年前の明治期末へとさかのぼる。当時の新聞記事にも「マンちゃん沖縄にやってくる」とうたわれており、新たにこの地に導入されたマングースによって、当時、サトウキビ農園に大きな被害をもたらしていたハブやネズミが駆除されるであろうことを、沖縄の人びとが期待していたことがわかる。在来種のハブやネズミを駆逐する目的のもと、外来種のマングースが沖縄にもたらされたのだった。

 ここで、歌の内容に話を戻そう。《悲しきマングース》の歌詞のなかでは、「インドはデカン高原を……」と歌われるが、実際のところ、動物学者の渡瀬庄三郎(1862~1929年)が沖縄本島南部へ連れてきたマングースはデカン高原からではなく、ガンジス川河口(現在のバングラディシュ)に生息していたフイリマングースだった。本書の第1章においては、「沖縄の史実」や「沖縄イメージ」が投影される一曲として《悲しきマングース》を紹介したが、この歌には同時に日本人が想起するところの、きわめて漠然とした「インド・イメージ」も浮かびあがる。すなわち前出の歌詞にみられるように、インド北東部を流域とするガンジス川もインド南部に位置するデカン高原も、はたまたバングラディシュもインドも、これらの間に介在する地理的な隔たりや文化圏の違いに頓着することなしに、この歌のなかではこれらを「インド」の名のもとに一絡げにしてしまっているのだ。インドやバングラディシュのことを「知らないが故」の誤解を生じている。一方的なイメージの構築には、一種の暴力性や危険性をともなう。そして、この歌はさらに次のようにつづく。

皮を剥がれてこの姿 マングースの悲しみを 明日はどなたが消すのやら ♪

月日は変わり身は変わり マングースは疲れ果て 空にゃポッカリ白い雲 ♪

背中を丸め逃げた日も 涙隠したこともある それはハブにもわかるだろう ♪

 人間の立場からすると、マングースが退治すべき敵であるはずのハブに対して、なぜかマングースは思いを寄せ、その歌詞にはマングースとハブがあたかも同志のように描かれる。暗喩ではあるが、人間こそ、マングースとハブにとっての敵なのだ。そして、この歌は次のように締めくくられる。

夢は破れてこの姿 マングースの優しさを どこのどなたが知るのやら ♪

雨降る夜はなお悲し マングースは穴の中 遠いふるさと思い出す ♪

 製糖業は沖縄県の基幹産業であり、農業や産業の振興のためにもサトウキビ農園をハブやネズミの被害から守ることは人間界の論理からすれば当然だった。だからこそ大義名分のもと、マングースはハブ退治のために沖縄へと導入された。けれども、立場を変えて自然界の論理で考えるならば、人間の身勝手な行為によって、マングースは生まれ育った環境のもとに生きることを断たれたのだ。その悲痛な思いが、メッセージとしてこの歌に込められる。

 このように近代沖縄では人間の犠牲となったマングースだが、それにもかかわらず、マングース導入という渡瀬の策は功を奏さなかった。その後もハブは根絶することなく、現在もなお沖縄本島にはハブもマングースも生息する。なぜなら、昼行性のマングースがわざわざ夜行性のハブを捕食しなくとも、他にも昼行性の生き物がいっぱいいるためだった。

 そののち、20世紀後半にもなるとマングースの生息域は当初導入された沖縄本島の南部から北上し、「ヤンバル」と呼ばれる沖縄本島北部にまで広がった。そして、1981年に本島北部の国頭村で発見され天然記念物として指定されているヤンバルクイナはマングースや野猫によって捕食され、その生息数が激減したという。本来、マングースはハブを退治するために人為的に導入されたが、その策も失敗に終わり、それどころか在来生物を捕食し生態系のバランス崩壊へ……、どのように対策するかが現状の課題となっている。

 本稿では、本書の第1章「原風景から多元的な自画像へ──テレビ番組「みんなのうた」が描く現代沖縄像」に登場する歌のひとつ《悲しきマングース》に着目して、この歌の世界から立ちのぼる近代沖縄社会と「インド・イメージ」に潜む暴力性、さらには、こぼれ話として沖縄社会の現状と課題について紹介した。そして、本書の第2章~第7章ではそれぞれに、雑誌や新聞、映画、ラジオやレコードといった各種メディアを介して、「沖縄」のこの100年がどのようにイメージされてきたのかに鋭く迫っている。

 文化創造とイメージの多様なありかたは、現在のわたしたちの価値観とどのようにつながっているのだろうか……。ぜひ、本書を手に取ってお読みいただきたい。

メディアのなかの沖縄イメージ──文化創造の100年

三島 わかな 編

2025年4月25日

定価 3,200円+税

メディアのなかの沖縄イメージ──文化創造の100年


試し読み

メディアのなかの沖縄イメージ
文化創造の100年

三島わかな 編

定価:本体3,200円+税

2025年4月25日刊
四六判並製 / 352頁
ISBN:978-4-909544-40-7


交錯する沖縄像
新聞・雑誌(活字)、映画・テレビ(映像)、ラジオ・レコード(音声)などのメディアは、「沖縄」をどのように描いてきたのか?
芸能や音楽などの文化、米国統治に象徴される歴史などを対象に、メディアが切り取った沖縄イメージの100年を追う。


目次
はじめに/三島わかな

第1章 原風景から多元的な自画像へ──テレビ番組「みんなのうた」が描く現代沖縄像/三島わかな

コラム① ウチナンチュの心のうた──《てぃんさぐぬ花》/三島わかな

第2章 軍楽隊、学校行進バンドと間接的琉米親善──USCAR時代のテレビ番組/名嘉山リサ

コラム② 質屋とニッカン・トランペット──戦後沖縄・日本の楽器事情/名嘉山リサ

第3章 沖縄ポップの作品創出とリズム様式の確立──一九七〇~九〇年代レコード・CDアルバムの展開から/久万田晋

コラム③ 沖縄ポップとことば/久万田晋

第4章 故郷をつなぐメロディ──戦後ハワイの邦字新聞・ラジオから見る沖縄救済運動と芸能の記憶/遠藤美奈

コラム④ はじめるきっかけ、つながるきっかけ/遠藤美奈

第5章 スクリーンをめぐる葛藤──一九三〇年代の劇映画と沖縄/世良利和

コラム⑤ サバニと戦艦/世良利和

第6章 組踊の〝古典〟化──近代沖縄の新聞にみる組踊の動向から/鈴木耕太

コラム⑥ 新垣芳子──はじめて沖縄で各種メディアに取り上げられた舞踊家/鈴木耕太

第7章 『女学生の友』が醸成した「沖縄」観と功罪──一九五〇~七二年の少年少女雑誌/齋木喜美子

コラム⑦ 〝ヒーロー〟の背後にある沖縄の現実/齋木喜美子

あとがき/三島わかな


編者
三島 わかな(みしま・わかな)

沖縄県立芸術大学芸術文化研究所共同研究員。音楽学(洋楽受容史研究、近現代日本音楽研究)。
『近代沖縄の洋楽受容──伝統・創作・アイデンティティ』(森話社、2014年)、『沖縄芸能のダイナミズム──創造・表象・越境』(共編、七月社、2020年)、「園山民平の調和楽」(西田紘子・仲辻真帆編著『近代日本と西洋音楽理論──グローバルな理論史に向けて』音楽之友社、2025年)など

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

祖母の話から始まった旅──葬送習俗を探るフィールドワーク/李生智

祖母の話から始まった旅──葬送習俗を探るフィールドワーク

李生智(『中国青海省・漢民族の葬送儀礼』著者)

本書は『中国青海省・漢民族の葬送儀礼──死をめぐる民俗誌』と題している。私が「青海省の漢民族の葬送習俗」を研究テーマに選んだきっかけは、祖母と一緒に見たテレビのニュースだった。2014年6月1日、中国のある地域で土葬が全面禁止され、火葬が義務づけられた。そのニュースの中で、高齢者たちが火葬を拒み、自ら命を絶ったという報道が流れた。私は「土葬することは命よりも大事なのか?」と驚いた。しかし、祖母は「私も死んだら、必ず土葬してほしい。おじいちゃんと一緒にいたいの」と強く願っていた。

私は祖母に「土葬しないと、おじいちゃんと会えないのか」と尋ねると、祖母は「カラダを燃やしてしまったら、あの世に行けないから。おじいちゃんと会えないの」と答えた。その言葉を聞き、唯物論の教育を受けた私は、土葬か火葬かは単に遺体の処理方法の違いにすぎないと考えていた。しかし、なぜ祖母をはじめとする年配者たちが土葬にこだわるのか。その問いが私の心に残り続けた。

2016年に國學院大學大学院に進学し、民俗学の視点からこの問いを解明しようと試みた。修士課程の2年間で日本民俗学の基礎を学び、特に2016年の夏には、広島県山県郡北広島町の「壬生の花田植」の現地調査に参加し、フィールドワークの重要性を実感した。文献資料の分析だけでなく、現場での調査が民俗研究に不可欠であることを理解した。

この経験を活かし、私は青海省の漢民族の葬送習俗についてフィールドワークを通じて調査し始めた。最初の調査では、地元の話者と対話しながら葬礼の手順や死者に対する考え方を記録し、さらに陰陽先生など宗教的職能者の協力を得て、実際の葬礼の現場を観察することができた。しかし、祖母たちが土葬にこだわる理由はまだ明確に解明できていなかった。

2017年の大学院の授業では、指導教員の小川直之先生が『一個人』(2017年8月号)という雑誌を紹介してくださった。その中のエッセイにあった「当たり前を発見」という言葉に強く心を打たれた。民俗学とは、身近にある「当たり前」の中に隠れた事象を発見し、それを研究する学問であると気付いた瞬間だった。

授業で学んだ知識や先生・先輩方から教わったフィールドワークの手法を活かし、葬礼の担い手や葬礼全体の流れを詳細に記録した。自分では当然だと思っていた葬礼の担い手の役割や喪服の意味、参列者の行為を丁寧に分析することで、祖母などの年配者が従来の葬礼の方法に固執し、遺体を土葬することを強く望む理由が明らかになった。

青海省では、亡くなった人の生前の状況や社会関係によってその葬礼の内容が変わる。こうした祖先代々から伝承された葬礼は、亡くなった人の生前を評価する象徴であり、死者の所属や今後の祭祀などを確定する儀礼でもある。また、葬礼は喪家が自分の家の社会関係を再確認・再構築する場でもあることに気付いた。遺体を埋葬することは、死者の所属を確定し、子孫が祖先祭祀を受け継ぐための象徴的な行為であった。葬礼は、青海省の漢民族にとって、自己肯定と社会関係を維持する役割を果たし、文化大革命時代の否定を乗り越えて根強く復活した。

私はフィールドワークを始めた当初、葬礼という悲しい場によそ者が入ることで、喪家の人々や村人から拒まれるのではないかと心配していた。しかし、最初の調査事例では、死者の長男が「我々の喪葬文化(葬送習俗)を記録し、論文として世の中に紹介することはとても有意義だと思う。母(死者)も喜ぶはずなので、遠慮なく調査してください」と快く受け入れてくれた。その後、葬礼の宴会にも招待され、豪華な食事をご馳走になるという予想外の経験もした。

調査を進める中で、喪家や話者だけでなく、葬礼の職能者である陰陽先生や礼儀先生も積極的に協力してくれた。調査地の人々の温かい支えがあったおかげで、私は8例の事例を参与観察することができ、学位論文執筆までに、聞き取り調査を含めて合計34例の事例を収集することができた。

祖母との話から生じた問いを、フィールドワークを通じて解明しようと試みた。フィールドワークを通じて得た知見は、単なる学問的な研究にとどまらず、私自身のアイデンティティを見つめ直す機会にもなった。また、日本で学んだ民俗学の視点を通じて、ふるさとの葬送習俗を新たな視点から捉え直すことができた。

現在、私は日本で研究を続けながら、青海省の葬送習俗に関するさらなる研究を進めている。本書を通じて、文化の多様性を理解し、青海省の人々の葬送文化を読者に伝えられれば幸いである。これからも「当たり前を発見する」姿勢を大切にしながら、研究を続けていきたいと思う。

中国青海省・漢民族の葬送儀礼──死をめぐる民俗誌

李生智 著

2025年2月28日

定価 6,000円+税

動物と民俗──鵜飼と養蜂の世界


試し読み

動物と民俗
鵜飼と養蜂の世界

宅野幸徳 著
篠原徹 編

定価:本体5,600円+税

2025年4月5日刊
A5判上製 / 240頁
ISBN:978-4-909544-42-1


共生と共存の民俗誌
記紀や万葉の時代から日本列島で行われ、動物の生態や習性を巧みに利用しながら、人間がその分け前を受け取る養蜂(ニホンミツバチ)と鵜飼(ウミウ・カワウ)。
野性を活かすその高度な民俗技術を長年のフィールドワークから明らかにし、「支配─被支配」関係ではない、人間と自然の共生の可能性を探る。


目次
宅野幸徳著『動物と民俗─鵜飼と養蜂の世界─』の刊行にあたって 篠原 徹

第一章 魚類の分布と漁具・漁法の関係 江の川全水域の事例的研究
第二章 西中国山地における伝統的養蜂
第三章 対馬の伝統的養蜂
第四章 紀伊山地地方の伝統的養蜂
第五章 高津川の放し鵜飼
第六章 三次鵜飼伝 鵜匠上岡義則翁からの聞き書き
第七章 有田川の徒歩鵜飼 鵜小屋と鵜飼道具に視点をおいて
第八章 鵜川と鵜飼 高津川の鵜飼再考 宅野幸徳・篠原 徹・卯田宗平

補論 長戸路の焼畑村 照葉樹林文化論再考 篠原 徹

やや長いあとがき 篠原 徹
初出一覧
著者略歴


著者
宅野 幸徳(タクノ ユキノリ)

1956年、島根県飯石郡飯南町生まれ。1981年、岡山理科大学基礎理学科卒業。中学校、高等学校で教鞭をとり、江の川高等学校校長、昭英高等学校副校長、出雲北稜中学校教頭などを務めながら、鵜飼とニホンミツバチの民俗について研究を続ける。2022年、逝去。
編者
篠原 徹(シノハラ トオル)

1945年、中国長春市生まれ。1969年、京都大学理学部植物学科卒業、1971年京都大学文学部史学科卒業。その後岡山理科大学助教授を経て、1986年より国立歴史民俗博物館助教授、教授となる。2008年人間文化研究機構理事を経て、2010年より2019年まで滋賀県立琵琶湖博物館館長を務める。「人と自然の関係をめぐる民俗学的研究」が一貫したテーマ。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

中国青海省・漢民族の葬送儀礼──死をめぐる民俗誌


試し読み

中国青海省・漢民族の葬送儀礼
死をめぐる民俗誌

李生智 著

定価:本体6,000円+税

2025年2月28日刊
A5判上製 / 240頁
ISBN:978-4-909544-38-4


死者と生者の民俗学
中国西北部の高原地帯に位置し、「遥かに遠い場所」と称される青海省。
かの地で伝承されてきた漢民族の葬送習俗は、文化大革命の時代に「封建迷信」として否定されるも後に復活し、政府が火葬を推奨する現在も、土葬を基本とした旧来の姿を保っている。
独自の葬礼を支えてきた漢民族の死生観や社会構造を、丁寧な「田野調査」(フィールドワーク)から明らかにする。


目次
序章 先行研究と本研究の課題
第一章 青海省の漢民族の葬礼の実態
第二章 村落と党家と葬礼
第三章 理想的な葬礼と三種類の死者
第四章 葬礼と宗教的職能者
第五章 青海省の漢民族の婚礼
第六章 葬礼と喪服
第七章 葬礼と贈答習俗 「寿礼」と「香奠」
終章 まとめと今後の課題

あとがき
初出一覧
索引→公開中


著者
李 生智(リ・セイチ)

1993年、中国青海省に生まれる。
2018年、國學院大學大学院文学研究科博士課程前期修了。
2024年、國學院大學大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(民俗学)取得。
現在、國學院大學大学院特別研究員。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

世間は広いようで狭い──野田泉光院5代目と柳田國男の出会い/板橋春夫

世間は広いようで狭い──野田泉光院5代目と柳田國男の出会い

板橋春夫(『日本民俗学の創成と確立』著者)

 世の中は広いようだが、案外狭いものである。私は関東の人間であり、関西方面へ出掛ける機会は極めて少ない。大阪へ出掛けた時であった。歩道橋を歩いていると、向こうから見たことのある男性が歩いてくる。高校時代の同級生であった。彼も私に気づいたらしく、立ち止まって「たまげたなあ、ここで会うとは」と言った。お互いに方角が異なっていたし、ほんのわずかの会話をしてすれ違った。その時の彼の笑顔を今も覚えている。たまげるとは、驚いたことを表現した言葉である。「世間とは狭いなあ」と思ったものであった。不思議なことにその後、彼に会っていない。

 これは、私のささやかな体験談であるが、全国各地を旅した柳田國男ならば、「世間は広いようで狭い」体験を何度もしてきたに違いない。ここから述べるのは、歴史上の事実を知って後世に生きる私たちの特権である。もちろん歴史上の人物である当人たちは、その時点では知る術もない話ではある。司馬遼太郎がどこかで書いていたが、私はビルの高い部屋から下を行き交う人たちをのんびり眺めている。すると、歴史のなかを行き交う人たちが歩いている。どう行けばどこへ出るかもよく見通せるのである。しかし、歩いている歴史上の人物はそれがわからない。

 椎葉村への旅をした柳田は、明治41年(1908)7月、三兄の井上通泰(1866~1941)の友人である杉田直という人物に会っている。杉田は、兄の通泰と東京帝国大学医学部の同窓であり、同じ眼科医であった。兄の井上は、弟柳田國男が九州旅行に出て、宮崎へ立ち寄るのでよろしくと伝えてきた。あらかじめやってくる日の連絡があった模様である。杉田は柳田が到着した夜、柳田の宿泊する旅館へ挨拶に出掛けている。

 杉田は眼科医としてよりも、俳人として有名であった。俳号は杉田作郎である。筆まめな人で日記を残している。それが『杉田作郎日記』である。その中に柳田関連の記事が出てくるのである。関連する部分を紹介する。読みやすさを考慮し、記載の体裁を若干変えている(詳細は『日本民俗学の創成と確立』参照)。

七月九日(雨)コノ朝、司法省法制局参事官柳田國男氏(井上通泰氏舎弟)着宮。夕桑原氏ヨリ通知ニ付夜訪問仕申候。九時半帰宅。
七月十日(晴)柳田参事官午後一時ヨリ、郡会議事堂ニテ農政経済講話アリ。午後五時、柳田参事官、浅井技師同伴来訪。午後六時半、柳田氏慰労会(泉亭)。内ニ会者三橋・亥角・浅井・塚本・渡辺、吉田、成合、七人、午後九時散会。帰途旅館神田橋柳田氏ヲ訪ヒ、同訪ノ桑原氏同道、十時半帰宅。
七月十一日(曇)朝八時柳田参事官ノ出発ヲ神田橋ニ見送ル。同行者、渡辺、吉田(椎葉迄同行)、見送り三橋、浅井、後レテ成合氏参。
七月二十八日(晴)井上通泰氏ヨリ礼状来ル。

 以上の記事は、拙著の刊行で初公開となる資料である。柳田と宮崎県の役人たちの動向や椎葉村へ向かう柳田と見送りまでが詳細に記される。柳田研究にとっても重要な発見と言える。小田富英編『柳田國男全集 別巻1 柳田國男年譜』(筑摩書房、2019年)を確認してみると、該当部分の修正を迫る貴重な資料であった。

 ここで話題にしたいのは、ビルの高い部屋から見ている歴史の景色についてである。杉田は眼科医院の開業に際して宮崎市へ出たが、元々は佐土原の人であった。「佐土原の杉田」と言って気づく人は地元の郷土史家くらいであろう。「杉田直=杉田作郎」という人物は、『日本九峰修行日記』を執筆した野田泉光院の5代目にあたる。昭和9年(1934)が泉光院の没後百年にあたるので、杉田は法要を営むと同時に、泉光院が書いた日記を活字本として刊行することを思い立った。ところが、泉光院の自筆本に欠本があることに気づいたのであった。

 泉光院は自筆本とそれを2冊写して、佐土原の藩主島津氏と修験の本山の醍醐寺へそれぞれ寄贈していた。活字本を出そうとしたときに一部が抜けていたので、杉田は醍醐寺へ問い合わせて探してもらったという。昭和10年(1935)、ようやく全巻揃って活字化に成功した。このエピソードもドラマのようである。そのことは石川英輔『泉光院江戸旅日記』(講談社、1994年)に詳しい。

 歴史にifはないと言うが、明治41年に柳田が宮崎へ来た時に、杉田が柳田へ泉光院が書いた『日本九峰修行日記』を見せていたらどうなったか。柳田は東京帝国大学を明治33年(1900)に卒業し農政官僚になったが、まもなく内閣文庫に入り浸って、そこで菅江真澄の紀行文や屋代弘賢が発した「諸国風俗問状」に対する答書などを読みはじめていた。杉田が野田泉光院の日記を柳田に見せていたら、柳田は大いに関心を持ったことは疑いない。柳田はそのチャンスをほぼ永遠に失ったのである。すれ違ったと言うべきか。

 庶民生活に分け入った旅の実践者が野田泉光院であった。真澄の旅とは庶民生活への視点も異なっている。強いて言えば、好奇心たっぷりで人びとの生活の中へ積極的に入り、厭なことやおかしいことに対して、率直に厭だ、おかしい、と歯に衣着せぬ書きっぷりである。庶民性豊かな記述に満ちている。当然内容は民俗性が豊かである。

 あの時、杉田が柳田に泉光院の日記を見せていたら、日本民俗学の生成はもっと変わった可能性がある、と想いをめぐらせてみる。柳田が創始する民俗学の庶民目線の捉え方も大きく変わっていたかもしれない。ビルの上からそんな景色が見えてくるのであった。もちろん、当人たちにはわからない。夢のような想像たくましい出来事に近いものである。それにしても、やはり「世間は広いようで狭い」と感じるのである。

日本民俗学の創成と確立──椎葉の旅から民俗学講習会まで

板橋 春夫 著

2024年10月29日

定価 6,000円+税