物語主義──太宰治・森敦・村上春樹


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物語主義
太宰治・森敦・村上春樹

中村三春 著

定価:本体3,400円+税

2024年2月24日刊
四六判上製 / 320頁
ISBN:978-4-909544-34-6


物語は自らを生成すると同時に媒介される。虚構・小説・映画を理論的に横断し、メタフィクション、語りの変異、逸脱するメタファーなど、テクストに入り込む雑音の軋みに耳を澄ませる。
芥川龍之介・太宰治・森敦・村上春樹・小川洋子らの小説やその映画化作品を主に論じる。


目次

はしがき

Ⅰ 物語と虚構の文芸学
第1章 虚構論と物語論──イーグルトンとウォルトンの虚構理論から
第2章 作者の理論・素描──加藤典洋・竹田青嗣のテクスト理論から
第3章 テクスト・断片・コンテクスト──三浦玲一のグローバル文化理論から
第4章 雑音調〈例外状態〉の文芸学──竹内敏雄の現代美学理論から

Ⅱ 小説と映画の物語
第1章 蝕まれるべき友情──小説構造から見た『白樺』派の小説
第2章 芥川龍之介のメタフィクション
第3章 太宰治におけるテクスト様式の成立──初期小説の研究
第4章 太宰治と複合的小説構造──作品集『女の決闘』
第5章 太宰治『斜陽』とチェーホフ『桜の園』──ファルスのオリジナリティ
第6章 森敦「月山」の小説と映画──〈境界〉などというものはない
第7章 物語の変容──森敦『われ逝くもののごとく』と「ハーメルンの笛吹き男」
第8章 村上春樹の小説と〈メタファー〉──『海辺のカフカ』と『騎士団長殺し』
第9章 村上春樹の小説における戦争──『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』『騎士団長殺し』と映画『ドライブ・マイ・カー』
第10章 現実性の境界事象──小川洋子『原稿零枚日記』


あとがき
初出一覧
索引→公開中
主要著作年譜


著者
中村三春(なかむら・みはる)

1958年岩手県釜石市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退。博士(文学)。北海道大学大学院文学研究院教授。日本近代文学・比較文学・表象文化論専攻。著書に『〈原作〉の記号学 日本文芸の映画的次元』、『接続する文芸学 村上春樹・小川洋子・宮崎駿』、『ひらがなの天使──谷川俊太郎の現代詩』(以上、七月社)、『フィクションの機構』1・2、『新編 言葉の意志 有島武郎と芸術史的転回』、『修辞的モダニズム テクスト様式論の試み』、『〈変異する〉日本現代小説』(以上、ひつじ書房)、『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』、『花のフラクタル 20世紀日本前衛小説研究』、『物語の論理学 近代文芸論集』(以上、翰林書房)、編著に『映画と文学 交響する想像力』(森話社)など。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

ブラントンの灯台を巡る旅/稲生淳

ブラントンの灯台を巡る旅

稲生淳(『明治の海を照らす』著者)

 私が生まれ育った串本町には樫野埼灯台と潮岬灯台があるが、これらの灯台は地元の人間にとっては遠足の定番コースといった存在で、特別な感情を抱いたことはなかった。しかし、20年前、所用で東京に行った帰り、三浦半島にまで足を延ばした折、たまたま立ち寄った観音埼京急ホテルでもらった小冊子「なぎさ」(京浜急行電鉄広報誌)の中に「横浜公園とブラントン」について書かれた一文を見つけた。ブラントンという名前に、どこか聞き覚えがあり調べてみると、樫野埼と潮岬の両灯台を造ったイギリス人技師であることがわかった。彼はスコットランド出身で明治政府が雇った最初の外国人だった。

 それまでに私はスコットランドを2度訪れたことがあり、エディンバラやインバーネスの都市以外にも、レンタカーでグレートブリテン島北東端のジョン・ノ・グローツやスカイ島にも足を伸ばしたが、灯台は一つも見てこなかった。ブラントンについて知るまでは、スコットランドが灯台先進国であり、我が国の灯台建設に多くのスコットランド人が関わっていたことなどを知る由もなかったのである。それ故に、ブラントンを知ってからは、上京する度に、横浜開港資料館などで、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』や『ファー・イースト』などの外国雑誌に、灯台やブラントンに関する記事が掲載されていないかどうか調べたりした。

 また、ブラントンが造った各地の灯台にも足を運んだ。犬吠埼灯台、剱埼灯台、石廊埼灯台、安乗埼灯台、樫野埼灯台、潮岬灯台、友ヶ島灯台、和田岬灯台、江埼灯台、部埼灯台、六連島灯台、角島灯台、伊王島灯台などである。フランス人技師ルイ・フェリックス・フロランが造った野島埼灯台、品川灯台(博物館明治村内に保存)、観音埼灯台、城ヶ島灯台も訪ねた。

 角島灯台を初めて訪問したのは1999年3月末のことである。角島大橋が架かる以前で、特牛港から連絡船に乗って渡った。灯台には、定期点検のため萩航路標識事務所の職員の方々が訪れていた。職員の方々のご厚意で灯台内部を見学させていただくことができ、レンズの置台にスティーブンソン社のプレートを見つけた時には宝物を発見したような気分だった。

 部埼灯台には門司からタクシーをチャーターして行ったが、道中、運転手から「僧清虚」の話を教えてもらった。伊王島灯台に行った際は時間に余裕がなく、伊王島の桟橋からレンタサイクルで灯台のある所まで坂道を駆け上った。六連島には下関の竹芝桟橋から連絡船で行った。小さな島ゆえに店もなく、空腹を紛らわせるために手持ちのお茶を飲みながら、港で帰路の船を待った。

 灯台は半島や岬、離島にあるため、灯台巡りにはかなりの不便も覚悟しなければならないが、本州最南端で生まれ育った私には「端っこ」を目指す習性があるのかもしれない。ちなみに、世の中には「先端愛好家」というべき人々がいて、彼らを「端から端まで族(end to end race)」というそうだ。イギリスでは、南西端のランズ・エンドからスコットランド北東端のジョン・ノ・グローツ間は、グレートブリテン島で最も長い距離となるため、自転車や徒歩の出発地点及び到着地点として親しまれている。イギリスで「フロム・ランズ・エンド・トゥ・ジョン・ノ・グローツ(from Land’s End to John o’ Groat(‘)s)」と言えば、「究極の旅路」「かなりの距離」という意味だそうだ。

 日本最東端の納沙布岬灯台から九州本土最南端の佐多岬灯台(灯台は大輪島にあるのだが)まで、ブラントンの灯台を巡る旅に出かけてみるのもおもしろいのではないだろうか。

明治の海を照らす──灯台とお雇い外国人ブラントン

稲生 淳 著

2023年11月28日

定価 3,200円+税

明治の海を照らす──灯台とお雇い外国人ブラントン


試し読み

明治の海を照らす
灯台とお雇い外国人ブラントン

稲生淳 著

定価:本体3,200円+税

2023年11月28日刊
四六判上製 / 352頁
ISBN:978-4-909544-33-9


「日本の灯台の父」の物語
明治初年、横浜の港に少壮のスコットランド人が降り立った。彼は、雇い主である日本政府の役人たちと衝突を繰り返しながらも、次々と全国の海難地帯に洋式灯台を建設していく──
お雇い外国人ブラントンの活躍と、その手になる灯台26基・灯船2隻について、丹念にまとめた一書。


目次
はじめに──ブラントンとの出会い

Ⅰ 灯台とお雇い外国人
1 世界史から見た灯台
2 灯台建設の背景
3 ブラントンの来日
4 ブラントンの灯台建設
5 灯台の維持管理
6 ブラントンと日本人上司
7 ブラントンと横浜のまちづくり
8 ブラントンと日本の近代化
9 ブラントンと岩倉使節団
10 お雇い外国人としてのブラントン
11 灯台とスコットランド
12 帰国後のブラントンと「手記」の執筆
13 ブラントンの灯台に対する評価

Ⅱ ブラントンの灯台
1 納沙布岬灯台(北海道)
2 函館灯船(北海道)
3 尻屋埼灯台(青森県)
4 金華山灯台(宮城県)
5 犬吠埼灯台(千葉県)
6 羽根田灯台(東京都)
7 横浜本牧灯船(神奈川県)
8 剱埼灯台(神奈川県)
9 神子元島灯台(静岡県)
10 石廊埼灯台(静岡県)
11 御前埼灯台(静岡県)
12 菅島灯台(三重県)
13 安乗埼灯台(三重県)
14 樫野埼灯台(和歌山県)
15 潮岬灯台(和歌山県)
16 友ヶ島灯台(和歌山県)
17 天保山灯台(大阪府)
18 和田岬灯台(兵庫県)
19 江埼灯台(兵庫県)
20 鍋島灯台(香川県)
21 釣島灯台(愛媛県)
22 部埼灯台(福岡県)
23 六連島灯台(山口県)
24 角島灯台(山口県)
25 白洲灯台(福岡県)
26 烏帽子島灯台(福岡県)
27 伊王島灯台(長崎県)
28 佐多岬灯台(鹿児島県)

Ⅲ ブラントンの故郷を訪ねて

参考文献
あとがき


著者
稲生 淳(いなぶ・じゅん)

1955年、和歌山県串本町生まれ。
甲南大学経済学部卒業、兵庫教育大学大学院学校教育研究科教科領域専攻社会系コース修了。
和歌山県内の小・中・高等学校、及び県外交流で広島県の高等学校に勤務。和歌山県立古座高等学校校長、和歌山県教育センター学びの丘所長、和歌山県立和歌山商業高等学校校長などを務め、2015年3月定年退職。

著書に『熊野 海が紡ぐ近代史』(森話社、2015年)、編著に『世界史とつながる日本史──紀伊半島からの視座』(村井章介監修、海津一朗との共編、ミネルヴァ書房、2018年)、共著に『熊野TODAY』(疋田眞臣編集代表、はる書房、1998年)、『海の熊野』(谷川健一・三石学編、森話社、2011年)、『つなぐ世界史2 近世』(岩下哲典・岡美穂子責任編集、清水書院、2023年)、『つなぐ世界史3 近現代/SDGsの歴史的文脈を探る』(井野瀬久美惠責任編集、清水書院、2023年)など。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

洗濯から始まった野田泉光院と村人の交流/板橋春夫

洗濯から始まった野田泉光院と村人の交流

板橋春夫(『日本民俗学の萌芽と生成』著者)

 近世の紀行文は、日本民俗学にとって大事な資料である。既に忘れられた生活が描かれるだけでなく、現代の民俗を再考する契機を与えてくれる。東北地方を旅に暮らした菅江真澄は有名だが、これは「文人の旅」である。その対極に位置するのが回国行者や修験者たちの「修行の旅」である。ここでは修行の旅に出た野田泉光院の日記を紐解いてみよう。

 宮崎県佐土原の安宮寺住職であった野田泉光院(のだ・せんこういん/1756~1835)は、醍醐寺派の修験でもあった。文化9年(1812)9月、修験の代表的な修行地をめぐる旅に出た。その旅は足かけ6年に及び、日々の見聞や体験を小まめに書き留めた。飫肥(おび)(現、宮崎県日南市)の城下に宿泊したとき、乞食坊主のような支度だったので、宿では一番汚い部屋に案内された。泉光院が便所へ行こうとして暗かったので、自分の提灯を点けて便所に行った。すると、その提灯を見た宿の人がびっくりし、急遽上等な部屋に替えてくれた。泉光院は「醍醐御殿御用」と書かれた菊紋入りを用いたのである。菊紋は天皇家関係の紋所である。

 民家や寺に泊めてもらうことが多く、お金を出すと断られ逆にお土産をもらった。それを繰り返すうちに、泉光院は修行の旅ではお金を払わなくてよいと気づく。安芸の宮島ではお茶をご馳走になって親切にしてもらい、帰ろうとしたらお茶代を請求されたという。すべてが無料でもなかったようである。宿屋では宿泊代を払うが、一般の民家は基本的に宿泊代を払っていない。現在であれば、電車賃と宿泊代が大きな負担となり、長期間の旅はむつかしい。

 泉光院は平四郎という強力(ごうりき)を雇って夜具を担いでの旅であった。現在、数日間の旅行ではトランクに着替えを入れるが、泉光院たちは洗濯をどうしていたのだろうか。それを教えてくれる記録が旅に出て四年後の日記に詳しく出ている。文化13年(1816)9月7日、下野国金丸村(現、栃木県大田原市)へ着いた。金丸村で托鉢に出かけ、天気も良いので洗濯をしたいと思っていたところ滞在するのに手頃な庵があった。庵の隣家に尋ねると、庵は無住であると教えてくれた。洗濯をしたいので貸してもらえないかと頼む。すると隣家の主人は名主へ問い合わせに出かけてくれた。素性も知らない初対面の人のために交渉を買って出てくれたのである。なんと親切な対応だろうか。

 昼間なので皆農作業に出ており留守であった。ということで、隣家の主人は「しばらく私の家に泊まりなさい」と言う。この親切な対応に驚くばかりである。泉光院は各地で同じように宿泊させてもらっていたのである。夜になって相談に出かけてくれたところ、借りられることになった。庵は真言宗の地蔵寺という。

 さて、泉光院たちが住みつくと、話にやって来る者もあり、加持祈祷を頼まれた。庵に住みついて20日間ほど経ったある夜、30歳ばかりの泥酔した男が庵にやってきた。「この庵は6軒の檀家で維持しているが、俺に一言も沙汰がないのはどういうことだ」と談判に来たのである。翌日、気になった泉光院は確認のため近所の檀家を訪ねると、まったく問題がないことがわかり、ホッとする。泉光院たちは地域の人と懇意になり、食物なども頂く。村人からたくさんの到来物が届くのは、まるで貴種歓待である。日記に出ている食品だけで生活できそうである。よほど居心地が良かったのだろう。10月22日まで逗留した。正月を過ごすための年宿とは異なり、秋の忙しい時期に45日間も長居したのである。

 その期間中、頻繁に贈答品が届くし、巳待や祈祷などの際にはご馳走がふるまわれる。贈答者を見ると隣組からの到来が多い。それ以外は加持祈祷をした際の贈答である。金五左衛門は小豆と味噌に、2首を添える風流人であった。金五左衛門宅で歌会も開催している。日記には「今日も和漢の付句する」とある。こう見てくると、金五左衛門という文化人が泉光院たちを引き留めた可能性が高い。茂左衛門は泉光院との長話を好んだらしく、泉光院は辟易している様子である。この村には、よそ者を歓迎する風があった。『野田泉光院』(1980年)を執筆した宮本常一(1907~1981)は、いつか金丸村を訪問してみたいと語っているが、それは果たされていない。

 この居心地の良い長期滞在は、洗濯をしたいということから始まった。当時の洗濯はどのようなものであったのだろうか。そのことで思い出すことがある。建築学科の教員をしていたとき、学生たちに洗濯や風呂などの水まわりの空間について講義した。その際に洗濯の変遷を話した。聴講していた和服の高齢女性がいたので着物の洗濯をどうするかと学生に質問してみた。学生たちは脱いだ着物はそのまま洗濯機に入れる、タライで洗うなどの回答をした。かさばる着物をどうやって洗濯機に入れるのかと言うと彼らは考え込んでしまった。和服の女性が手を挙げて解説してくれた。彼女は「着物をこわして」と言ったと思うが、「壊す」と理解した学生が多かったようである。いったん糸を抜いて1枚の反物に分解して洗う。そして再び着物に仕立てる。すると、全員が驚きの声を上げた。洗濯板や糊付けの話は、現代の学生には異次元の世界であった。

 さて、江戸時代に戻る。泉光院たちは9月7日に泊まり始めたが、日記には「十二日、洗濯したぢする」、「十五日、先達て頼みし染物出来、洗濯物あり」とある。さらに「二十五日、洗濯物の糊拵へ等する」とあり、「二十六日、洗濯物糊する」と記される。そして「二十七日、衣類仕立す」とある。10月6日に「洗濯物成就」と記されている。この時代の洗濯は、縫い付けた糸をすべてほぐし、1枚の布にしてしまう。それを水洗いしてきれいに洗い、板張りで乾かす。そのときに糊をつける。それが「糊する」である。乾いてから仕立るが、これは縫い直すということである。裁縫は泉光院または平四郎がやったとは思えない、地元の女性に頼んだのだろうか。染め物は近くの紺屋に頼んだと推測する。200年前、野田泉光院は45日間に及ぶ滞在型の民俗調査を実践していたのであった。

日本民俗学の萌芽と生成──近世から明治まで

板橋 春夫 著

2023年10月20日

定価 5,400円+税

日本民俗学の萌芽と生成──近世から明治まで


試し読み

日本民俗学の萌芽と生成
近世から明治まで

板橋春夫 著

定価:本体5,400円+税

2023年10月20日刊
A5判上製 / 320頁
ISBN:978-4-909544-32-2


日本民俗学はどのようにして生まれたのか
「古風」の発見によって江戸時代に芽生えた民俗的関心は、明治以降の近代化の中で、触発・融合・反発を繰り返し、やがて柳田國男という大河に注ぎ込む。学史の丹念な整理から描き出す、日本民俗学誕生前夜の鳥瞰図。


目次
序論
はじめに
一 日本民俗学生成期における民俗学史の評価
二 日本民俗学確立期における民俗学史の評価
三 日本民俗学発展期における民俗学史の評価
まとめと課題

Ⅰ 近世期における民俗研究の萌芽

第一章 『菅江真澄遊覧記』にみる民俗世界
はじめに
一 菅江真澄の民俗的見聞録
二 菅江真澄の見たナマハゲ
三 夜伽と火焚き習俗
四 アヤツコの民俗
五 疫病の隔離習俗
六 「日本民俗学の開祖」評価の疑問
まとめ

第二章 近世紀行文にみる民俗事象の発見
はじめに
一 貝原益軒「日本民俗学の鼻祖」評価の疑問
二 古川古松軒『東遊雑記』の民俗的視点
三 橘南谿『東西遊記』の旅と古風への視点
まとめ

第三章 野田泉光院『日本九峰修行日記』にみる庶民の暮らし
はじめに
一 宮本常一の紀行文の評価
二 野田泉光院『日本九峰修行日記』
三 記述の特色の諸相
四 居心地の良い農村で長期滞在
五 野田泉光院が見た疱瘡習俗
まとめ

第四章 古風の発見と田舎
はじめに
一 民俗の自覚・古風への着目
二 経験する辺境の記録『寺川郷談』
三 古語と辺境の関係性
まとめ

第五章 探訪と観察の実践
はじめに
一 鈴木牧之『秋山記行』の民俗世界
二 『北越雪譜』にみる雪の民俗
まとめ

第六章 資料収集の実験「諸国風俗問状」
はじめに
一 屋代弘賢のアンケート調査
二 回答者の調査態度
三 「諸国風俗問状」にみる米寿の祝い
四 疫病除けと俗信
五 雛祭りの遊山箱
まとめ

第七章 不思議な現象の記録
はじめに
一 平田篤胤の幽冥界・異人論
二 奇談・雑話を集めた『耳嚢』
三 膨大な随筆集・松浦静山『甲子夜話』
まとめ

Ⅱ 明治期における日本民俗学の生成

第八章 外国人の日本文化研究と人類学会の成立
はじめに
一 外国人による日本文化研究
二 人類学会の創設
三 報道画と民俗画像の『風俗画報』
まとめ

第九章 土俗会の活動と羽柴雄輔・山中共古
はじめに
一 土俗会の活動
二 土俗への関心
三 「物質的具象的な民俗現象」への注目
四 羽柴雄輔の調査報告
五 山中共古の観察記録
まとめ

第十章 柳田國男の民俗学への転進
はじめに
一 民俗学以前の柳田國男
二 農政官僚から民俗学者への転進
三 『後狩詞記』でフィールドを体験
四 『石神問答』で研究手法の模索
五 『遠野物語』の文学性と初期研究テーマ
まとめ

第十一章 南方熊楠のFolklore
はじめに
一 南方熊楠の生涯
二 オコゼが取り持つ南方と柳田の縁
三 南方と柳田の交流と学問志向
四 南方の構想した民俗学
五 「往古通用日の初め」の先見性
六 南方熊楠の民俗学入門
まとめ

第十二章 郷土会と雑誌『郷土研究』の創刊
はじめに
一 新渡戸稲造の地方学と郷土会
二 雑誌『郷土研究』を創刊
三 神話研究の高木敏雄
四 南方熊楠による編集方針批判
五 雑誌『郷土研究』が提示した諸課題
まとめ

第十三章 Folkloreの受容と雑誌『民俗』
はじめに
一 山中共古とイギリスのFolklore
二 柳田國男が愛読した『白き石の上にて』『流刑の神々』『金枝篇』
三 上田敏の俗説学と芳賀矢一のフォークロア
四 石橋臥波と雑誌『民俗』
まとめ

第十四章 折口信夫「髯籠の話」をめぐる諸問題
はじめに
一 折口信夫の生涯
二 「三郷巷談」の投稿
三 「髯籠の話」の発想
四 触媒となった南方熊楠の目籠エッセイ
五 プライオリティの問題
まとめ

結論
一 本書の構成と要約
二 先行研究の評価
三 民俗研究の萌芽期(近世期)の特徴
四 日本民俗学の生成期(明治時代)の特徴

参考文献一覧
あとがき
索引→公開中


著者
板橋 春夫(いたばし・はるお)

1954年群馬県生まれ。1976年國學院大学卒業。伊勢崎市職員、新潟県立歴史博物館参事、日本工業大学建築学部教授を歴任。現在、放送大学客員教授、成城大学大学院文学研究科非常勤講師。博士(文学・筑波大学)、博士(歴史民俗資料学・神奈川大学)。

単著:
『群馬の暮らし歳時記』(上毛新聞社、1988年)、『葬式と赤飯─民俗文化を読む─』(煥乎堂、1995年)、『平成くらし歳時記』(岩田書院、2004年)、『誕生と死の民俗学』(吉川弘文館、2007年)、『叢書・いのちの民俗学1 出産』(社会評論社、2008年)、『叢書・いのちの民俗学2 長寿』(社会評論社、2009年)、『叢書・いのちの民俗学3 生死』(社会評論社、2010年)、『群馬を知るための12章─民俗学からのアプローチ─』(みやま文庫、2012年)、『産屋の民俗』(岩田書院、2022年、日本民俗建築学会竹内芳太郎賞受賞)

共編著:
『日本人の一生─通過儀礼の民俗学─』(八千代出版、2014年)、『年中行事の民俗学』(八千代出版、2017年)

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

『お祭り野郎:魚河岸の兄弟分』論──サブスクで振り返る1970年代の「神輿ブーム」/三隅貴史

『お祭り野郎:魚河岸の兄弟分』論
──サブスクで振り返る1970年代の「神輿ブーム」

三隅貴史(『神輿と闘争の民俗学』著者)

 本書の序章、「神輿渡御を闘争として分析する」では、本書のキーワードである「闘争」から神輿渡御を分析するという着想を筆者が得た、2017年5月21日早朝の三社祭一般宮出しの様子や、先行研究として取り上げる祭礼研究の大まかな見通し、本書の最大の特徴と目的、そして、民俗学、民俗芸能や祭り・行事研究、地域社会/都市社会研究、社会学、人類学、カルチュラル・スタディーズ、メディア研究、若者・ジモト研究、歴史学などの領域に愛着を持つ読者に対する本書の内容紹介を、約5,000文字の分量で書き下ろした。

 そしてこの文章は、七月社のWebサイト内の「試し読み」コーナーにて、すべて読むことができる。ざっくりと本書がどういった内容の書籍なのかを知りたい方々は、ぜひお読みいただきたい。

*  *  *

 本書にて筆者は、日本において神輿が最も盛り上がった時代として、1970年代前半から1980年代半ばの「神輿ブーム」を取り上げた。神輿という「趣味」が、熱狂的愛好家という限られた範囲を超えて大衆化したという意味で、この時代に並ぶ時代はない。そして筆者は、現時点では、これに並ぶ時代が今後再来するとは考えていない。

 そんな「神輿ブーム」のありようを、誰もが容易に振り返ることができる映像資料などはないものだろうか。サブスクの発展が、こんな無理難題を解決してくれた。なんと、本書でも内容を紹介した『お祭り野郎:魚河岸の兄弟分』(東映、1976年。以下、『お祭り野郎』と略す)が、いまや某定額動画配信サイトで配信されているのだ!

 筆者がノートを取りながらこれを見た2016年には、中古VHSを購入して、ビデオデッキ(もちろん一人暮らしの院生の家にあるはずもなく、大学の共同研究室の隅に追いやられていたものを借りて、大学で見た)で見るしか、ほぼ手段がなかったというのに! この時代のテレビ番組がほとんど現存していないのと比較すると、対照的といえる*1

 『お祭り野郎』については、本書で以下のように論じた。実は、元になった博士学位申請論文ではもっと多くの紙面を割いて論じていたのだが、書籍化の際に泣く泣く分量を削減した結果、これだけの記述しか残らなかったのだ。

このような出版・放送メディアにおける神輿会への注目の中で、最も顕著なものとしては、松方弘樹演ずる熱狂的な神輿会成員を主人公とする、類例を見ない映画『お祭り野郎:魚河岸の兄弟分』(一九七六年)が挙げられる。本映画は、実際に存在したある神輿会とその会長をモデルにしており(『月刊東京情報』一九七八年二月号、一三頁)、二〇以上の神輿会が宣伝・エキストラに関わっている。
(本書、一七七頁)

 さらに、『お祭り野郎』をめぐっては、入稿前に追加するか迷った挙句、結局本書に追加しなかった議論がある(以下のポイント③にあたる)。ということで、東京圏の神輿渡御の研究をしている研究者として、『お祭り野郎』に鮮明に記録されている1970年代の神輿ブームのありようについて、見所を以下の3点から解説しておこう*2

ポイント①:1975年頃の「江戸前」スタイル

 なんといっても、本映画の中では、この頃から新興の神輿会、そして、一部の町会成員の間で定着が見られる「江戸前」スタイル(本書118頁と、第8章にて詳述)に注目してもらいたい。カラー映像でこれらが残されているという意味において、『お祭り野郎』は一線級の「映像資料」なのである。

 映画の中では、それ以前のスタイルである、半纏・ダボシャツを脱ぎ捨てたようなスタイルや、半ももなどを着用した人びとも見られる。しかし、松方弘樹演ずる主人公を中心として、鯉口シャツ・草鞋・紺の腹掛けと股引き・紺の地下足袋、会半纏という、「江戸前」スタイルが採用されていることが、一目瞭然である。そして、この映画における担ぎ手の服装は、現代の東京圏でしばしば見受けられる「江戸前」スタイルのありようと、大きな差がないといってよい。

 その他、本書で論じた内容と重複する、注目してもらいたい点として、「江戸前」担ぎ的な「一拍子」と称される掛け声(冒頭の九州での神輿担ぎの場面を除く。本書119頁と第8章にて詳述)、女性の担ぎ手の一般化(本書224頁から226頁にて詳述)、そして、会の成員で揃って斜め45度に手を上げるという形式で行われる、今ではあまり見られないマスゲーム的所作(本書120頁にて詳述)などがある。

 1972年頃の鳥越祭が映し出されている『祭りだお化けだ全員集合!!』(松竹、1972年。これはかなり多くのサブスクのラインナップに入っている)では、ドリフの面々が「江戸前」スタイルで神輿を担いではおらず、「江戸前」スタイルの担ぎ手はそう多くない。鳥越祭は、三社的な美学を積極的に取り入れてこなかった祭礼ではあるが、この二作品で描かれている表現の差異は興味深いものである。

ポイント②:神輿会のフォークロアと神輿会同士の意地の張り合い

「てめえら腰抜けの祭りのグループなんぞ、聞いたわけねえぜ。いっぱしの顔する前に、俺らのとこに修行に来な!」
「何言ってるの。浅草いろははね、神輿同好会よ。喧嘩をするためにあるんじゃないの。」
(映画内の台詞より)

 三社祭や「江戸前」スタイルという「祭礼のありよう」が描かれている一方で、この当時の神輿会という組織のフォークロアが描かれていることも、本映画の魅力の一つである。

 主人公が所属する銀座睦会の「溜まり場」とそこでの成員同士の交流に注目してみよう。銀座睦会はしばしば、クラブ(?)や成員が働く銭湯などで交流の機会を持っている*3。そしてこれは、この時代の神輿会でしばしば見られたもののようだ。

 本書で1970年代の神輿会のありようを示すためにしばしば引用したタウン誌『月刊東京タウン情報』『月刊東京情報』『月刊東京情報うるばん』では、「喫茶スナック××で第1土曜日に例会」といった記載が見られる。現在ほど簡単に連絡を取り合うことができない、この時代の趣味集団のフォークロアを読み取ることができよう。

 また、この当時の祭礼でも、喧嘩は重要な要素の一つだったようだ。本映画では、神輿場での担ぎ手同士の喧嘩は描かれていないものの、神輿会の成員同士の煽り合いと喧嘩、そして、それをたしなめる台詞がしばしば見られる。上で引用した台詞は、その代表的なものである。

 喧嘩をして帰ってきた神輿会の成員を、「神輿会は神輿を担ぐためにあり、喧嘩をするためにあるのではない」とたしなめる場面は、昔も今も変わらない、神輿会成員のあふれんばかりの男性性を象徴する場面といえる。本映画の中での、密かな筆者のお気に入りの場面である。

ポイント③:根無し草(神輿会成員)VS下町生まれ・育ち(町会成員)

「銀座睦会の当面の目標、浅草三社祭でイニシアチブを取ることだ!」
「もうすぐ日本三大祭りの一つ、浅草の三社祭があんだ。」
(映画内の主人公の台詞より)

東京の下町に生まれ育ち、つい昨年まで(もちろん今年もやるが)二五年以上もミコシをかついできた私(いや、私の仲間もふくめて)にとって、こんなお祭り野郎などチャンチャラおかしくって、松田政男風にいえば涙がちょちょぎれるのだ。というより、実に腹立たしいかぎりだ。/ぬけぬけと「お祭り野郎」と名うったこの作品は、一体、“祭り”の何を表現したかったのか。(中略)その貧しさは目をおおうばかりだ。
(西脇英夫,一九七六,「日本映画批評:お祭り野郎 魚河岸の兄弟分」『キネマ旬報』通巻一五〇〇号、一七三頁)

 最後に、本書の主要なテーマである町会と神輿会との闘争という視角から、最も興味深い点を論じていこう。そこで取り上げるのが、上に引用した、東京の下町生まれ・育ちの西脇英夫による、本映画に対する酷評である。

 本映画を、日本映画史に渾然と輝く傑作であると断言することは困難であると言わざるを得ない。この酷評にもある程度は賛同できる。

 しかし筆者は、西脇による酷評を、『お祭り野郎』の純粋な出来栄えに対して向けられたものとして読み取るよりも、西脇という下町の町会成員による、『お祭り野郎』で描かれた「お祭り野郎」こと主人公、つまり、熱狂的な神輿会成員に対する理解不可能性の表明として読み取る方が妥当だと考えている。

 具体的に説明していこう。西脇は『お祭り野郎』が、「年に一度のその日を待ち」、祭りの日に狂気につかれたように暴れ回る人びとと、普通の人びとをそのように変えてしまう祭りの魔力について、観光映画ほどにも語ることができていないと手厳しく批判する。

 「年に一度のその日を待ち」とあえて記載した西脇の文章から、様々な祭礼で神輿を担ぎ、地元の祭りではなく、高い人気を集めるに至った「日本三大祭り」の三社祭を絶対視する、主人公ら銀座睦会の成員への非難を読み取るのは、穿った見方とはいえないだろう。

 つまり本批評では、西脇の批判の最初の矛先は、映画自体ではなく神輿会に向けられている。まとめると、とんでもない力を有しているお祭りという素材に注目する上で、本映画はなぜか神輿会に注目したことで、素材の良さを台無しにしている、これは作家のセンス・“粋さ”の欠如だ、という論調なのである。

 下町生まれ・育ちの批評家がこのように論じる一方で、「お祭り野郎」こと主人公は、狭いアパートで仲間と相部屋生活を続けている。そして彼は、物語の進展につれて、築地を離れ、神奈川県の三崎漁港で働き始める。映画内で明確には論じられていないが、彼は都内に帰る場所を持たない、根無し草なのである。

 彼らのような人びとが、1970年代という時代に、神輿会の成員という形で東京圏の祭礼に関わるようになったこと、そして彼らが、三社祭を「最も良い」祭礼だとする世界観の中で、三社祭における覇権争いに加わっていったことは、興味深いというより他ない。

 本書では、1970年代の東京における人口変動と「神輿ブーム」とを関連づけて論じることはできなかった。だがこの映画では、東京への転入者が「神輿ブーム」を受けて、下町の人口減少が続く祭礼に参入していくことで、ブームが加熱していく様子が確かに描かれている。

 この点については、より詳細な議論が必要である。注*1でも論じた『ふるさとの歌まつり』などの「ふるさと」系テレビ番組の研究を通して、今後、この点を明確にしていきたい。

*  *  *

 本映画は、神輿会の世界にも大きな影響を与えた。とある神輿会の役員は、本映画によって一つの会が過剰に注目された結果、「荒れる原因を作った」と筆者に語った。ほとんどの人がこの映画のことを記憶していないであろう一方で、神輿会の世界では、筆者が参与観察を行った2010年代にもこの映画のことがしばしば語られていたのだ。

 熱狂的な神輿会の会長を主人公とし、ストーリーで三社祭が大々的に取り上げられる大規模公開作品が、今後登場することはまずないだろう。その意味で、当事者にとってこの映画がきわめて思い出深いものであることは間違いない。アカデミックな世界の読者の方々にも、本映画を通して、神輿ブームの空気感を是非とも感じてもらいたい。

 筆者の『神輿と闘争の民俗学──浅草・三社祭のエスノグラフィー』では、『お祭り野郎』といった映画や、『月刊東京タウン情報』『月刊東京情報』『月刊東京情報うるばん』といったタウン誌、『an•an』や『女性セブン』といった女性誌を利用して、神輿ブームのありようを描き出している。その意味で、神輿ブームの当事者の方々にとって、懐かしく、かつ、たいへん「個性的」な書籍だといえよう。

 本書が堅苦しい学術書であることは否めないが、本コラムで登場した様々なキーワードに懐かしさを感じる、神輿ブームの実践者の方々に、本書をお手にとってもらいたいと思っている。加えて、そういった方々や、浅草の人びと、そして、現在40代くらいの、神輿ブームを直接は知らない神輿会の成員の方々から、本書の内容をご批正いただけることを、大変楽しみにしている。


*1 『ふるさとの歌まつり』(1966年〜1974年)、『お国自慢にしひがし』(1974年〜1978年)、『宮田輝の日本縦断 ふるさと』(1975年)といった「ふるさと」系テレビ番組の研究をしている筆者にとって、テレビ番組の現存量の少なさは、抱えている困難の一つである。

*2 いうまでもなく筆者は、映画の分析や映画史を専門に学んだ研究者でなければ、映画評論家でもなく、ただの民俗学者である。そのため、東映任侠映画路線と本作との関係性や、本作の監督である鈴木則文の作品の中での位置付けなどの論点には立ち入らない。

*3 本筋からは逸れるが、例会に集まった銀座睦会の成員の中に、ホワイトカラー(銀行員)がいることが、貴重な尺を使ってあえて描かれている点にも注目すべきだろう。

神輿と闘争の民俗学──浅草・三社祭のエスノグラフィー

三隅 貴史 著

2023年3月31日

定価 4,500円+税