吉田綱富について/水野道子

吉田綱富について

水野道子(『現代語訳 童子百物かたり』著者)

『童子百物かたり』の著者の吉田綱富のことについては、すでに前書きや解説で触れていますが、綱富が体験した当時の様子や人柄が偲ばれるところを、著者自身が著わした『吉田綱富一代記─勤書之外諸雑記─』の中から一部紹介したいと思います。

米沢藩の下級藩士、吉田綱富(通称・作弥)が生まれたのは、宝暦6年(1756)の11月で、「子年・子の月・子の日・子の刻」だと記されています。子(ね)が重なっているのは、驚きです。

綱富が21歳の時、父親が中風で倒れたときのことを次のように記しています。

父の藤助は、手足がきかなくなって、そのまま寝たきりになってしまい、子供のように下のこともおしえることができなくなった。三度の食事も側らで食べさせてやらなければならなかった。
そして、何も話さなくなってしまった。ただ「作弥、作弥」と呼びはしたが、「何かご用ですか」ととんでいっても、無言で、しばらくすると、また「作弥、作弥」と、終日終夜用事もないのに呼ばれる有様であった。
下のことも、時をかまわずたれっぱなしなので、毎日毎夜、寝床の下藁の始末は、5、6寸ばかりの筒に切った藁にして取り替えた。
雪の頃の極寒の夜の汚れ物の洗濯には難儀した。もとより困窮者であるから余分の着替えもなく、汚れ物はその夜のうちに洗いすすいで、こたつで乾かして着替えさせた。

このように、当時の介護の厳しさが伝わってきます。
 
綱富は、さまざまな役を経て、文政3年(1820)65歳のときに、その身一代御馬廻りに召し入れられ、上杉鷹山公の住まわれていた三の丸御殿の御台所頭を仰せ付けられます。
文政3年、鷹山公の孫にあたる鶴千代様(12代斉憲公 1820~1889)のお誕生のときには、鷹山公から御祝の産着を差し上げる役をお仰せ付かりました。その産着は、鷹山公の御部屋様が80歳のお年でご自分で仕立てられたものでした。
鶴千代様の母君は鶴千代様が生まれて間もなく亡くなられたため、鷹山公は鶴千代様を三の丸御殿に引き取り、父の斉定公が江戸からお帰りになられる翌年までみなで面倒を見るようにと仰せられたということです。

文政5年(1822)に鷹山公が亡くなられてから、綱富は三の丸御殿御屋敷の将、そして、三の丸御殿に入られた分家の駿河守様の御屋敷の将となります。
そのころ、幼かった斉憲公やご兄弟が、御殿からたびたび御屋敷に遊びにみえられたことが記されています。

文政5年9月6日、物見櫓(ものみやぐら)の下にあけび棚を作っておいたところ、あけびが見事に熟したので、お子様方を御案内した。お子様方は大変喜ばれ、40個ほどおとりになられ、そのあと、自分のところの座敷でゆるゆるお遊びになって帰られた。
あけびがなると、「おやぐらのあけびが、今を盛りに口あき、見事でございます。今日は日和もよろしいようでございますので、なにとぞお出かけになられますように。耄(おいぼれ)が御案内申し上げます」とお知らせした。
このとき(文政8年8月)は、八時(午後2時頃)いらっしゃったので、御門前へお迎え申し上げた。あけびを50個余りお手柄あそばされ、それから物見櫓に入られて御庭前御屋敷中ごらんになられたので、あちこち御案内申し上げた。

お子様方は、ことに物見櫓がお気に入りのようで、随所に出てきます。また、綱富は、あけびだけでなく、山吹やつつじ、海棠(かいどう)の花見にも御案内して、親しくお仕えしていました。
文政9、10年頃は、若殿様(斉憲公)が7、8歳の頃で、「若殿様御弓射に入らせられ候に付、御送迎前々の通」というように記していて、よく弓を射に来られたようです。
綱富も70歳くらいであったので、孫とのふれあいのような感じでお仕えしていたのではないでしょうか。

こうした若殿様と綱富の交流は、隠居した後にも見られます。
天保12年、綱富が86歳頃、殿様になられていた斉憲公が、自分のことを変わりはないかとお側の人にお尋ねになられたということを聞き、ありがたいことと記しています。
また同じ年、殿様が白布高湯よりお帰りのことを聞き、綱富は屋敷裏の街道を前日より掃除して、その日の昼頃街道端に敷物をしいてお待ちしていたところ、殿様が馬で通られたので拝上奉った。殿様は帰られてから、自分のことをお噂され、御酒や御肴・お菓子を内々に使いの者より下された。ありがたく冥加至極感涙に及んだということも記されています。
 
綱富の一世紀に近い一生には、まだまだいろいろなエピソードがありますが、紹介しきれませんので、いずれ『綱富一代記』を翻刻して、皆様にお伝えしていければと思います。

現代語訳 童子百物かたり──東北・米沢の怪異譚

吉田綱富 著 水野道子 訳

2019年3月8日

定価 2,300円+税

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