沖縄芸能への思いと眼差し/久万田晋

沖縄芸能への思いと眼差し

久万田晋(『沖縄芸能のダイナミズム──創造・表象・越境』編者)

2019年10月31日未明、首里と那覇のちょうど中間に住む私は、サイレンをけたたましく鳴り響かせながら次々と首里方面に向かう消防車の音で目を覚まされた。いったい何事か、とインターネットをチェックすると、ネット上には次々と首里城が炎上する写真や映像がアップされ、沖縄中が騒然となっていた。首里城が火災だと? ありえない! その後テレビ放送でも臨時ニュースが続々と放映されて全国を駆け巡った。明るくなってから私は首里城の間近にある大学に出勤し、いまだ火炎と黒煙を上げ続ける首里城を呆然と見つめていた。

私は1990年代初頭から沖縄に暮らし始め、首里城が再建される様子を間近から見てきた。当時の沖縄では首里城の再建をきっかけとして、映画、テレビ、音楽、出版、観光など様々な分野で琉球王国ブームがわき起こった。
首里城の再建も、最初はすべての沖縄県民から賛同されたというわけではなかった。首里城は、琉球国時代を通じて宮古や八重山や他の島々を過酷な人頭税によって搾取し続けた首里王府の悪しき象徴だという意見もあった。また首里城は、地方に暮らす多くの庶民にとって生活と結びつかないただの飾り物だという首里城ハリボテ論も唱えられた。しかし1992年の再建から30年近くの年月を重ね、多くの国家的・全県的式典や行事の場として繰り返し使用されることで、次第に沖縄の人々の心のシンボルとして定着してきたように思われる。
その間、首里城には様々な思いが重ねられてきた。幾度もの世替わりと戦火を被った沖縄の苦難の歴史の刻印として首里城を見る人々の思い、日本有数の観光地沖縄の象徴としての首里城に注がれる日本全国からの眼差し、世界遺産に登録された琉球王国遺跡群の代表としての首里城に注がれる世界各国からの関心。1992年に再建された首里城には、こうした多様な意味付けが重ね合わされてきたのだ。今後、首里城を再々建する計画が進められてゆくことだろうが、このように首里城が担ってきた様々な思いや眼差しを尊重して進められることを願っている。

ここまで長々と、本書とは関係のない首里城の話をしてしまった。本論集は、沖縄に関わる音楽芸能の様々な領域について、若手中堅の研究者たちが各々の問題意識に基づいて自由に執筆した論文を集めたものである。しかし収められた諸論考には、次のような問題意識が共通している。音楽・芸能における伝統というものは必ずその背後にひそむ制度や権力装置があり、それはある時代や社会において持続的な支配力を及ぼす。また一方で、この制度や権力装置は時代や社会的状況の変化に伴って(時には劇的に)変化するのである。音楽・芸能は、見た目は強固な伝統を保持しているようでも、それがおかれた時代的、社会的状況によって揺れ動き、変化せざるをえない。本論集の各論は、沖縄の音楽・芸能のこうした変容に注目すると同時に、その背後にある制度や権力装置のはたらきや変化に注目した論考なのである。
琉球国における国家的行事として遂行された冊封儀礼の核としての組踊を上演する論理と多様なあり方。また王都首里からの文化的影響を受容しつつも、島々独自の民俗行事の中で醸成された祝宴と芸能の豊かな姿。昭和前期に日本で始まったラジオ放送の番組をきっかけとして、その後も長らくマスメディアにおいて支配的となる琉球・沖縄イメージの創出プロセス。戦後沖縄社会にはじまる古典芸能コンクールにおいて「型の統一」という形で制度化された芸能様式と、日本の文化財行政との統合によって硬直化されるジェンダーの問題。また民俗芸能エイサーがコンクールという場での評価を通じて沖縄各地に新たに伝播してゆく現象。近代以降沖縄で推進された海外移民による人の移動に伴って伝播された沖縄芸能と、さらに当地で新たに創出される芸能。またそうした人間の移動に伴う越境的ネットワークを通じてやり取りされる楽器「三線」が生み出す象徴的価値。
最初の首里城の話題に重ねると、各論者が対象とした音楽・芸能には、各々の時代を通じて多くの思いが重ね合わされている。またその音楽芸能には、様々な地域や立場からの多様な眼差しも注がれている。沖縄の音楽・芸能に重ねられてきた多重かつ多様な思いや眼差しを、ていねいにひも解く試みとして本書をお読みいただければ幸いである。

沖縄芸能のダイナミズム──創造・表象・越境

久万田晋・三島わかな 編

2020年4月15日

定価 2,800円+税