民俗学のまなざしと麦の座標/野本寛一

民俗学のまなざしと麦の座標

野本寛一(『麦の記憶』著者)

ビール麦や、健康食品・地域興こしの素材とされるモチ麦、農協がかかわる一部の小麦栽培などを除いて、この国の風景の中から主食としての麦栽培にかかわる種々の営みや耕地に育つ麦の姿が消えて長い時が流れた。麦踏みも、麦秋の景観も、麦コナシにいそしむ人びとの姿も総じて過去のものとなってしまった。それは、日本人が米に次ぐ穀物として主食の一角に加え、その増産に努めてきた麦である大麦を素材とした麦飯が食卓から消えてしまったからである。また、小麦系の食べものは現今でも多食されてはいるものの、その原料の小麦は90%を輸入に頼っているからだ。食糧構造の中における大麦系の麦の比重は昭和三十年前後から始まった高度経済成長の歩みとともに軽くなり、昭和四十八年の石油危機のころにはもう麦飯が食卓にのぼることはなかった。

「麦の記憶」をふり返り、反芻すべきだと考えた理由はいくつかある。飽食の時代と言われ、グルメブームの煽動に乗り始めてからも久しい。一方厖大な量の廃棄食品・食品ロスが批判の対象になってからも根本的な改善はなされていない。過剰に用意された節分の恵方巻の残余はどこへ行くのか。クリスマスケーキにしても同様である。コロナ禍における需給不全は別途として、これまでの廃棄食物の多さは世界の心ある人びとから顰蹙を買ってきた。しかも、こうした状態が、カロリーベースでの食料自給率三七%という極めて危い中で行われているのである。厖大な債務にまみれる中での身の丈に合わぬ浪費、華美なるものへの単純な願望も省察されなければならない。

高度経済成長期以前、この国の子供たちは皆、一粒の米、一粒の麦を粗末にすることを強く戒められて育ってきた。昭和初期までは、稲の籾摺り作業を自家で行うのが一般的だった。籾摺り作業をすると、納屋の土間などに米や、割れた米、未熟の米がこぼれる。このような米を丁寧に拾い集めて竪臼・横杵でハタいて(叩いて=搗いて)粉化し、その粉を捏ねてから蒸し、「ネコ」と呼ばれるカマボコ型の棒の形に整え、これを切って食べる方法があった。叩くところから静岡県ではこの餅を「オハタキ」と呼んだ。オハタキにする米は粳米・屑米が多かったのでオハタキは灰色をしていたし、糯種ではないので粘着力がなかった。静岡県藤枝市蔵田の藤田賢一さん(明治三十五年生まれ)は籾摺りの日の拾い米で作ったハタキモチのことを「ツボモチ」と称して臼や神棚に供えて、家族も食べたと語る。ツボモチとは「粒餅」の意だと考えられるが「土穂餅」と見る地方もある。藤田さんは、「師走川渡らぬ先にツボモチを」という口誦句を伝えていた。「籾摺りは十一月中に終えよ」ということである。また、「ツボモチをよそ(他家)へやるとツボモチが泣く」とも伝えていた。「ハレの餅」ではない、「始末」「倹約」の餅、食素材を大切にする褻の餅なので、家族で内々に大切に食べるものだとする心意が見られる。米粒・麦粒などの穀類を一粒たりとも無駄にしてはいけないという伝統が儀礼として定着していたのである。

飽食の中に生きる現代人は手のとどく過去の人びとの食べものに対する心がまえを忘れてはならないのである。本書の中で詳述する通り、麦という穀物は、刈り取り以後、麦コナシをして、精白する。飯にするのにも手がかかる。その間の手間隙には想像を絶するものがある。多くの穀物の中で口に入るまでにかけなければならない労力の多さは、何と言っても大麦(皮麦)が一番である。多くの手間と時間をかけてやっと食べることができるのだ。そうした苦労に支えられて命をつないできた麦のことを忘れ去るわけにはゆかないのである。もとより今、こぞって麦飯を食べよ、などというわけではない。麦とともにあった心を失ってはならないのだ。

平素は麦飯か糅飯で、米の飯は盆正月か人生儀礼の折にしか口に入らない時代が長かった。静岡県の大井川中・上流域は知られた茶産地で、お茶の季節には下流部の水田地帯から季節労務者として多くの茶摘み女や茶師と呼ばれる焙炉師が山のムラムラに入った。茶摘み女には麦飯でも、技能者である茶師には米の飯と夕飯酒と呼ばれる酒が付けられるのが一般的だった。静岡県焼津市藤守の加藤正さん(明治三十二年生まれ)は焙炉師として大井川中流域の山のムラムラで茶を揉んでまわった人である。加藤さんは次のような茶摘み唄を記憶していた。

茶揉みゃ米の飯正月か盆か 主もやりたや川根路へ
お茶師ゃ米の飯正月か盆か 親の年忌か嫁入りか

「銀舎利」とも俗称される純白の米の飯が庶民にとっていかに特別なものであったかがわかる。

田植、春蚕あげ、麦刈りが一時に降りかかる農繁期の重い仕事をみごとに為しとげて来た人びと、夜、大麦をエマしておき、朝それを米と混ぜて炊き直し、大家族の飯を用意し続けた人びと、麦コナシで芒の刺激と埃と汗が混じって押し寄せる痒さに耐えた人びとなどの多くは、幽明境を異にしてしまった。たとえ十分なものでなくとも、断片のごときものであったとしても、今記しておかなければ、麦にかかわる多様な苦渋と、その中でも味わったであろう充実感などは永久に忘れ去られてしまうのである。私には僅かな麦の記憶があるだけなのだが、それをもとにして各地の方々から麦にかかわる多くの体験と伝承を聞いてきた。それは、体系的、計画的なものではなかったのだが今となっては貴重である。書きとどめるべきだという思いが強く湧いた。

近代以降もこの国の人びとは己が命を支える主食食物としての麦に大きく依存してきた。その麦に対して日本民俗学のまなざしは決して細やかで、温かく、行きとどいたものだとは言えなかった。それでも、これまで、麦の様々な側面、麦にかかわる様々な営みの一定の部分に光を当て、優れた成果を示しているものも多々ある。それらの多くについては本書の各章で引用または例示させていただいている。多くの成果の中でも、埼玉県内の事例を扱った大舘勝治氏の「麦作」は緻密・精細であり、総合的でもあって学ぶところが多かった。

こうした成果に学びながらも、「麦」と「麦に関する多くの営み」を民俗学の視座から全国的に眺め、総合的にまとめたものは見られないように思われた。なぜこのような状態に至ったのであろうか。その要因の一つは、日本人の食の中核に位置したのが米であり、それを生み出す営みが水田稲作だったからである。そして、米の日常的な食法は「飯」という形態であり、「麦飯」という言葉が纏っている通り、米に麦を混ぜた飯は、晴れの日に食される「白米の飯」に対して、「褻の飯」「粗末な飯」として位置づけられてきたのだった。その上、晴れの日には糯種の米によって餅が搗かれ、これが年中行事や人生儀礼の祝いの食物となり、神饌ともなり、儀礼食ともなってきた。麦の中の小麦は粉化の後様々に加工されて儀礼食にもなったのだが、それらといえども米の餅と対等とは言い難い部分があった。「麦飯」に象徴されるように、麦は常に米の陰に位置し、従属する位置にあり、麦は米を補足するものと見為されてきた。稲(米)は夏作で、麦は冬作であるのだが、人びとは、長く、稲を表作、麦を裏作と称してきた。こうした風潮のもとにあればこそ、麦と日本人の関係を総合的に探究し、まとめてみようという動きが鈍かったのである。

また、民俗学およびその周辺に、起源論・伝播論、特定の栽培物を象徴的指標とする文化論的なものを提示する流れが風靡した時代があった。当然、そうした探究の意義は深いものではあるが、それらは、一国民俗学には荷が重すぎる部分もあり、方法論としてなじまないところもあった。学際的共同研究や国際的共同研究において初めてそれらは可能となる。日本民俗学はまず、この国の民俗を具さに見つめ、社会環境、自然環境や時代変容の中で、その特色を確かめ、生活者とのかかわりを学ぶところから始めなければならないのである。

例えば里芋をとりあげるとすれば、早生、中生、晩生、さらには茎のみを食べる芋など、一体里芋にはどのような種類があるのかを知らなければならない。褻の生活の中でどのように季節適応をし、どの時期にどの種類の芋を主食的に、どのように調理して食べてきたのかを知らなければならない。晴れの食とされた「芋餅」に使われた里芋はいかなる種類で、芋餅に混合物はあったのかなかったのか、晴れの食として芋餅を食べる日、芋をそのままで食べる日は何の日だったのか、里芋の種類と栽培環境──定畑か、焼畑か、水田か、そして里芋の貯蔵法はいかなるものだったのか、里芋以外の主食系食物には何があったのか、──こうした、暮らしに密着した実態から離れた文化論はどうしても観念的になり、暮らしの襞とも言うべき庶民の苦渋や細かい実態を捨象してしまうのである。起源論・伝播論も同じくである。

麦が総合的にとりあげられてこなかったのは、それが常に脇役だったことにより文化論のごとき晴れやかな舞台に登りにくかったということも考えてみなければならない。この国で第一次産業系の仕事に携わってきた人びとは、一人で多くの生業要素にかかわることが多く、身近な自然の中から様々な食素材を獲得し、耕地からもじつに多種に及ぶ食素材を得ていたのである。単一職業的ではなく、「生業複合的」だったのだ。麦栽培もまたその中の一つであった。

かつて属目の風景の中にあった麦は視界から消えた。今、まだこの国の中にはイロリやオクドさんから電子レンジまでを体験し、山中で暮らし塩蔵魚さえ稀とした者で、かつては思いも及ばなかった冷凍食品を容易に口にできるようになった者もいる。生活様式が激変し、それが価値観まで変える現今である。社会生活が激変する時代には、民俗学もその草創期の方法のみに頼っているだけでは道は拓けない。多様な模索があってよいはずだ。社会生活の激変、それに応じて暮らしの細部まで変容・変質してゆく現今なればこそ、個々の民俗や人びとの暮らしぶり、その周囲の景観や栽培作物の消長や変転を克明に記しておく必要が生じてくる。それは民俗学の主要な責務の一つであるはずだ。民俗学は微細な変容に敏感でなければならない。私は、この社会変容にともなう民俗の消滅や変化にも目を注いできたつもりではあるが、個人の力には限界がある。

麦の民俗を総合的に見つめる仕事が稀少である理由の一つには、民俗を学ぶ者の主題や関心が細分化されてきたこともかかわっている。食物としての麦とその食法、栽培作物としての麦の栽培技術、麦にかかわる農耕具・穂落とし具・脱粒具(民具)、麦作にかかわる儀礼、麦栽培や麦コナシにかかわる労働慣行、麦の労働にかかわる民謡、などの側面がある。さらに、地域定点的モノグラフなどもある。分野限定、地域限定で対象物に当たれば精度はあがるが、部分を掘っただけでは麦と人との多様なかかわりが見えてこない。対して、例えば鳥瞰的、総合的に「麦」を描こうとすれば、どうしても粗さがつきまとう。麦の民俗を描き出そうとすれば、農学の成果や歴史学、文化人類学も学ばなければならなくなる。容易なことではない。

気圧され、躊躇し、手を拱いている間に数多の細かい麦の記憶が消えてしまう。麦とともに生きた人びとが幽明境を異にしてしまう──。ある種の危機感を抱き、手のとどく過去の麦に対して遅蒔きながら探索の一歩を踏み出した。本書の骨格はほぼ目次の章立てのごときものであるが、時には麦そのものからはやや距離のあるものもとりあげている。

※本文章は、『麦の記憶』の「序章」より一部を抜粋したものです。

麦の記憶──民俗学のまなざしから

野本寛一 著

2022年6月23日

定価 3,000円+税