琉球建国史をめぐる最大の「謎」/吉成直樹

琉球建国史をめぐる最大の「謎」

吉成直樹(『琉球建国史の謎を追って』著者)

 一般に広く知られている琉球国(統一王朝)が沖縄島に形成される過程は次のようなものであろう。

 14世紀後半の沖縄島には、明に朝貢する山北、中山、山南という小国家(それぞれの王は「琉球国山北王」「琉球国中山王」「琉球国山南王」を名乗った)があったが、沖縄島南部の一角を占める佐敷を拠点にしていた思紹、尚巴志の父子が、1406年に中山王武寧を、1416年に山北王攀安知を、1429年に山南王他魯毎を滅ぼし、三山を統一した。

 しかし、上記の過程を裏づける確かな史料は存在しないのである。たとえば、琉球国に伝わるいくつかの正史は、それぞれ国の成り立ちを記すが、食い違いがみられる。思紹、尚巴志の三山統一の過程を、山南、中山、山北の順に滅ぼしたとするか、中山、山北、山南の順とするかの違いがみられるのみならず、三山統一の時期さえも異なっているのである。

 滅ぼす順番を山南→中山→山北とするのが『中山世鑑』(向象賢編、1650年)、『蔡鐸本 中山世譜』(蔡鐸編、1701年)であり、中山→山北→山南とするのは『蔡温本 中山世譜』(蔡温編、1725年)、『球陽』(鄭秉哲ほか編、1743-1745年)である。

 また、統一の時期は、『中山世鑑』『蔡鐸本 中山世譜』では1422年、『蔡温本 中山世譜』では1429年である。

 つまり、現在、通説として流通しているのは『蔡温本 中山世譜』の考えなのである。

 『中山世鑑』は沖縄の伝承にもとづくもの、『蔡鐸本 中山世譜』は『中山世鑑』をもとに『歴代宝案』(琉球国の外交文書を集めた漢文史料)で一部訂正したもの、『蔡温本 中山世譜』は明の正史で同時代史料である『明実録』の琉球関係記事をまとめた『中山沿革志』(1683年。尚貞王の冊封使汪楫編)などをもとに、従来の考えを否定し、新説を唱えたものである。これらの正史は、三山の統一から200年以上の時を経て編纂されたものであることに注意したい。

 利用できる同時代史料は、『明実録』の三山の朝貢記事や冊封記事にほぼ限定される。これらの『明実録』の記事から三山の統一をどのように考えるかというと次のようになる。

 『中山世鑑』の伝承では1402年(洪武35)年に滅んだとされる山南が1429年(宣徳4)まで朝貢記録があり、それまで存続していたと考えられること、山北は1422年(永楽20)まで存続していたとされるが、1416年(永楽14)を最後に朝貢はしておらず、その時には滅んでいたと考えられること、などである。

 しかし、これはあくまで朝貢したのが山南や山北の当事者であった場合に限られ、中山王が山北王や山南王の名義で朝貢していた場合は、こうした見方は簡単に崩れることになる。

 思紹、尚巴志によって三山はどのような順番で征討され、最終的に統一されたのはいつのことだったのか、またそもそも思紹、尚巴志とはどのような人物だったのか。琉球国が立ち上がる過程は闇の中にあると言ってよく、謎なのである。これが、本書のタイトルの「謎」が直接的に意味する内容である。この謎解きは本書に委ねることにしたい。

 しかし、琉球の建国史をあれこれ詮索しなければならないことが物語るように、なぜ建国の過程が記録として残されなかったのか、考えてみればこれこそが大きな謎なのである。本書ではほとんど議論する余裕がなかったが、改めて問題の提起をしておきたい。

 この謎に対して考えうる解答のひとつは、文字で記録を残す習慣がなかったからというものである。15世紀代までの沖縄島では久米村(現在の那覇市の一角)の華人職能集団が残した明への朝貢関係の文書を中心とする外交文書を除けば、琉球社会の内部を窺い知る文字史料は確認されておらず、16世紀はじめまで待たなければならないのである。つまり、琉球国王が発給した辞令書の初出は1523年であり、王府編纂の祭式歌謡集である『おもろさうし』の巻一が成立するのが1531年のこととされる。

 しかし、足利義持と「りうきう国のよのぬし」(思紹に比定)の間で、1414年と1420年に書状がかわされており、「りうきう国のよのぬし」の書状を作成したのが、後の対日外交の担い手になる禅僧たちであったとしても(本書では思紹の時代にはすでに禅僧が対日外交の担い手であった可能性を考えた)、15世紀初頭の段階でまったく記録に残す手段がなかったわけではない。

 三山の朝貢貿易の文書作成や航海にいたるまで、その業務を一手に引き受けていた久米村の華人職能集団も「三山の統一」にまったく関心があるようにみえない。単に、朝貢貿易を中心とする業務の事務的、技術的側面だけをこなすのが職務と認識していたとすれば記録に残さなくともおかしなことではないかもしれないが、華人職能集団の中からは王相(国相)として内政にも関与したと考えられる者もいたことを考えれば記録に残さなかったのは、やはり不思議な気がする。

 当事者を含め、これほどまでに誰も記録に残そうとしなかったのはなぜだろうか。考えうるとすれば、「三山統一」とは、われわれが考えるような「国盗り」をイメージする統一国家の形成を目指したのではなく、それとは異なる意味を持っていたからではなかろうか。意図的に残そうとしなかったというより、そもそもそのような意識を持ちえなかった可能性である。その点について踏み込んで答えることはできないが、本書で論じたように琉球国が交易者たちによって形成されたことと密接に結びついているのではないか、というのが現在の見通しである。

  * * *                   

 最近、拙稿を引用していただくことがある。本書を刊行しようと考えた大きな理由のひとつは、引用していただくこと自体、ありがたいのだが、筆者の意図と異なる意味合いで引用されることがあり(筆者の文章力の問題なのだが)、これまでの議論の簡便な見取図を書いておく必要を感じたためである。おおむね2010年以降の仕事についてである。もちろん、丁寧に書き込んでいるわけでもなく、論旨だけという内容になったが、これまでの議論の修正点を含め全体の見取図としては見通しのよいものになったのではないかと思っている。もちろん引用にあたっては元の拙稿にも当たっていただきたい。

琉球建国史の謎を追って──交易社会と倭寇

吉成直樹 著

2022年10月6日

定価 2,000円+税