全集と詩人イメージ/名木橋忠大

全集と詩人イメージ

名木橋忠大(『立原道造 受容と継承』著者)

立原道造(1914~39)の清純なイメージの形成には、『四季』立原道造追悼号(1939・5)における諸家のエッセイが大きな影響力を持ちました。加えて全集の編纂方針もまたその一助となったようです。
立原の死から二年ほどで全三巻本の全集が刊行されました(山本書店、1941~1943)。編纂の中心となったのは堀辰雄ですが、第三巻に収録された立原の盛岡滞在時の手記にちょっと気になる箇所があります。

ゆふべの夢はたいへんなくらゐだつた。僕の関係のふかい人たちが殆ど全部あらはれた。みな不思議な場面ではあつたが。(①)
      *
僕は、いま、ここにひとりゐる。これが自由だらうか。僕は、僕をつないでゐるさまざまの見えないものを見る。自由は日常のなかですつかりと拒まれてゐる、と、僕はかんがへねばならないのだらうか。逆に日常を拒むことで自由はやうやく得られると――しかし日常のない人間があり得るだらうか。空気のない鳥の飛翔のやうに。(②)

かつて僕のした約束を、けふ、僕は、やぶらねばならなかつた。あのとき、あんなにもゆたかにした約束を、僕は忘れたのではなかつた。夢想することで、僕はその約束を果してゐるやうな錯覚にとらへられてゐたのだ。(③)

こんな内容が記されています。夢の中ではいろんな人が現れた。不思議な夢だった(①)。それなのにいま僕はひとりだ。自由は日常のなかで拒まれている(②)。そんな日常の中で僕は自分のした約束を破らねばならなかった(③)。――約束とは、盛岡の地で自身を新生させるという誓いのことです。この一連の記述から彼は意志の弱さを悔やんでいるように読めます。第二次全集(全三巻、角川書店、1950~1951)もこの形態でした。
異変が起こったのは第三次全集(全五巻、角川書店、1957~1959)で、この手記について読者には新たな事実が明かされました。実は①と②、②と③の間には次のような記述が差しはさまれていたのです(太字で示してみます)。

ゆうべの夢はたいへんなくらゐだつた。僕の関係のふかい人たちが殆ど全部あらはれた。みな不思議な場面ではあつたが。(①)
      *
Nはかへつて行つた。僕はそれを望んだのだらうか。
あの別離が行はれてから、僕たちには、また平和が、かへつて優しさがかへつて来たのだ。しかし、ふたたびは、もとにはもどり得ない。彼の奪つたものも、僕の奪つたものも、互にあまりに多すぎる。
そしてけさ、Nはひとりかへつて行つた。

僕はいま、ここにひとりゐる、これが自由だらうか。僕は、僕をつないでゐる、さまざまの見えないものを見る。自由は日常のなかで、すつかりと拒まれてゐるとぼくはかんがへねばならないのだらうか、逆に日常を拒むことで、自由はやうやく得られると……。しかし日常のない人間があり得るだらうか、空気のない鳥の飛翔のやうに。(②)
僕はちひさな病ひをさへ持つてゐる、Nのかはりに。あるひは、Nは僕の病ひではなかつたらうか。病ひが僕を解き放し、ふたたび病ひは僕をつなぐ。

かつて僕のした約束をけふ僕はやぶらねばならなかつた。あのとき、あんなにも、ゆたかにした約束を、僕は忘れたのではなかつた。夢想することで僕はその約束を果してゐるやうな錯覚にとらへられてゐたのだ。(③)

語句訂正の他、「N」と呼ばれる人物が出現しました。これにより手記の内容は大きく変わります。①②の箇所は先に読んだような、人がたくさん出て来る夢を見たけれど目が覚めたら一人になったという内容ではありませんでした。夕べの夢→今朝「N」が帰って行った→僕はひとりになったという文脈で、立原は「N」がいなくなったあと彼に奪われたものは戻ってこないと唇を噛んでいるのです。
立原は続けて日常において自由でいられないことを嘆き(②)、自分のした約束=新生への誓いを破ってしまったことを悔やみます(③)。ここでも彼は自身の意志の弱さを嘆いていたのではなく、日常を不自由にしていた「N」への押し殺した憤懣を吐露していたのでした。「N」を「病ひ」とまで記しています。「N」という「病ひ」のために、新生への誓いはめちゃめちゃになってしまった。――
手記の他の箇所で立原は「N」をかなり口汚くののしったりもしていて、第一次・第二次全集では「N」の個所は省かれてしまっています。
しかしなぜこんな処置が?
第一次全集には、実は「N」も編纂に加わっていました。「N」はこの手記を読んだ時、自分が厄介者だと思われていたことに大打撃を受けたといいます。堀辰雄は「N」に慰めの手紙を送り、「N」に手記の編集をまかせ、結果として「N」の記述は削除されたのでした。同時に、友人に悪感情を持つ立原もまた読者から隠蔽されました。
「N」は1948年に没し、堀も1953年に亡くなります。この箇所は第三次全集(1957~1959)から原文通りに示されるようになりましたが、第一次全集への掲載を見送ったあと戦災で失われてしまった書簡もあるといいます(保田與重郎宛に他人を誹謗した書簡等)。第一次全集の編纂方針は、立原のイメージ形成の方向を定めたと言えるのかもしれません。

立原道造 受容と継承

名木橋忠大 著

2020年6月30日

定価 4,500円+税