行商と軽便/山本志乃
行商と軽便
山本志乃(『「小さな鉄道」の記憶』プロジェクト代表)
地方へ民俗採訪に出かけると、軽便鉄道の痕跡に出会うことがしばしばある。とりわけ私が訪ね歩くのは、魚介類や農産物などを担い売る行商人の女性たちなので、そうした人たちにとって、かつて全国各地に展開していた小規模な鉄道は、欠くべからざる移動手段であった。
なかでも印象に残っているのは、鳥取県中部の泊という漁村から、20キロほど先の倉吉まで、汽車を乗り継ぎ魚を売りに行っていた伊藤増子さんだ。この地方では、行商人のことをアキンドさんと呼ぶ。大正14(1925)年生まれの増子さんは、40歳くらいのときから魚のアキンドを始めた。私が出会った平成24(2012)年には、すでに商売をやめて久しく、アキンドの重い荷で痛めてしまった腰をいたわりながら、漁師だったご主人と二人、静かに暮らしておられた。最初のうちは、こちらの意図をつかみかねたのか、言葉少なに素っ気ないふうであったが、二度三度と足を運ぶうち、訥々と、しかし生き生きと、アキンドをしていたころの体験を話してくれるようになった。行商の体験者は、概して記憶が鮮明で、こちらの問いかけに対する反応も早い。仕入れから販売まで、暗算を武器に世間を渡ってきたわけだから、頭の回転が速いのである。
増子さんの話には、特有のリズムがある。お客さんや市場の人、同業者たちとの会話を、そのまま再現するように話してくれる。おかげで、当時の情景がまざまざと目に浮かび、聞いているだけも楽しい。おそらく増子さんは私の反応から、どんな話を聞きたがっているのか、何を望んでいるのか、敏感に察したうえで話をしてくれていたのだろう。常連客との関係を大切にするアキンドは、お客さんと交わす何気ない会話をとおして、家族構成から品物の好みにいたるまで、あらゆる情報を熟知したうえで仕入れに臨む。相手の心のうちを会話からつかむのは、お手のものなのである。
アキンドをしていたころの増子さんは、毎朝4時に起きて泊の港にあった市場で仕入れをし、朝5時過ぎの汽車に乗って商売に出かけていた。山陰本線の泊駅から上井(あげい・現倉吉)駅まで行き、ここの魚市場でさらに荷を足して、軽便鉄道の倉吉線に乗り換える。目的地の西倉吉駅に着くと、駅近くに置かせてもらっているリヤカーに荷を積みかえ、お客さんのもとへとリヤカーを引っぱって歩く。午前中で商売を終え、再び汽車を乗り継いで帰宅。シイラが獲れる夏の時期は、季節限定のこの魚を心待ちにするお客さんのため、午後にもうひと往復することもあった。
増子さんは、山陰本線のことを「ホンセン」、倉吉線のことを「ケイベン」とよぶ。軽便鉄道にもいろいろあって、倉吉線の場合は、軽便鉄道法を適用させた低規格の国鉄路線。軌間は一般的な1067ミリなので、外見上は山陰本線とさほど変わりはない。それでも、増子さんが語るホンセンの情景とケイベンのそれには、明らかな違いがあった。
朝一番に乗るホンセンの汽車内は、地元の泊をはじめ、沿線各所から乗り合わせたアキンドでいっぱいだ。車内で持ってきた弁当を急いで食べ、他所からやってきたアキンドから荷を買う。冬場はとくに、兵庫県のほうから県境を越えてやってくるアキンドが多くいて、焼サバやヘシコといった東部特有の品物をわけてもらう。上井駅に着くと、魚市場から迎えに来ているトラックの荷台に仲間と乗り込む。魚市場でさらに仕入れを重ね、ブリキカンの上に、魚箱やミカン箱などを載せて縄で縛る。時間との闘い、仲間との競争――そんな緊迫した空気が、言葉の端々から伝わってくる。
大きな荷を背負って倉吉線の上灘(うわなだ)駅まで行くと、ここからはケイベンだ。倉吉線は、山陰本線の上井駅を発し、城下町の風情を残す倉吉の中心市街を通り、岡山県境に近い大山山麓の山守駅まで伸びる20キロほどの路線である。この車内でも、特産の練り物を携えやってくる八橋(やばせ)のちくわやと乗り合わせ、テンプラとコロッケを買う。テンプラとは、魚のすり身で作ったいわゆるさつま揚げ。コロッケは、そのテンプラにパン粉をまぶして揚げたもの。作りたてなので温かい。お客さんにも人気だが、買ったその場で自分も食べる。「ぬくいのは、うまいけえな」と聞けば、湯気とともに香ばしさが漂ってくるようだ。「そしたら、うまげだな、って車掌さんがいいなる。座って食ってみなれ、うまいで、って、慣れちゃってな、車掌さんも。ならひとつもらっていくかいな、って来るようになった」
商売先の西倉吉駅に着く。冬ならまだ日ものぼらない時間だ。ここの駅長は同じ泊の出身で、ストーブに当たっていくよう勧めてくれる。夜明けまでの時間、しばらく暖まらせてもらい、ほどよいころあいになったところで出発する。
帰りは帰りで、商売から戻る増子さんが到着するまで、出発を待っていてくれることもある。「駅長さーん、って駆けって行ったら、おーい、っていいなる。カンカン負うて行くまでに、駅長さんは汽車の方をセナ(背中)にして、私が下りてくるのを待っとんなる。駅長さんが手をあげな、汽車は発たれんだけえ」
増子さんの語りには、往復に使っていたケイベンでのできごとがよく登場する。そしていつもそれを、とても楽しそうに話してくれた。仕入れまでの慌しさが一段落し、いよいよお客さんの家を回るまでのひととき、ケイベンの駅や車内でのふれあいが、増子さんにはかけがえのない憩いの時空間だったのだろう。
増子さんは、倉吉線が廃線となった昭和60(1985)年にアキンドをやめた。国鉄の分割・民営化に向けた動きに加え、自家用車の普及やライフスタイルの変化も著しく、廃線はやむないことではあったが、倉吉線を生活の足としていた人たちの姿も、同時に消えてしまった。
倉吉線の線路跡は、現在サイクリング道路としてわずかにその面影をとどめるばかりとなった。だが、昔日の早朝、ブリキカンを背に汽車から群れを成して下りてくる迫力や、リヤカーを引いて一軒一軒を訪ねてまわるアキンドさんの声は、町の人たちの心に今なお鮮やかに残る。小さな商売と小さな鉄道の忘れえぬ情景は、つつましくも心豊かな暮らしの記憶として、土地の中に生き続けているのである。
「小さな鉄道」の記憶──軽便鉄道・森林鉄道・ケーブルカーと人びと
「小さな鉄道」の記憶
軽便鉄道・森林鉄道・ケーブルカーと人びと
定価:本体2,700円+税
暮らしの真ん中を走った、小さな鉄道の物語
主要都市を結ぶ幹線鉄道の網目からもれた地域に、人びとは細い線路を敷き、そこに小さな列車を走らせた。
地場の産業をのせ、信仰や観光をのせ、そして人びとの暮らしと想いをのせて走った鉄道の、懐かしく忘れがたい物語。
目次
序章 道の文化史/神崎宣武
コラム① 駅舎と執務/原 恭
コラム② 鉄道唱歌/成瀬純一
第一章 街道と鉄道/髙木大祐
コラム③ 「駅前」の誕生と賑わい/山本志乃
コラム④ 駅弁のさまざま/黒田尚嗣
第二章 産業の振興と軽便/山本志乃
コラム⑤ 失われた沖縄の鉄路/坂下光洋
コラム⑥ おわん電車といも電車/三輪主彦
第三章 魚梁瀬森林鉄道の人びと/中村茂生
コラム⑦ 銀幕を走る軽便鉄道/成瀬純一
コラム⑧ 鉄路と神仏/髙木大祐
第四章 朝鮮の軽便鉄道/松田睦彦
コラム⑨ 瀬戸内少年の朝鮮行旅/松田睦彦
コラム⑩ 鉄道会社の野球チーム/山本志乃
第五章 満洲の熊岳城温泉と軽便鉄道/高 媛
コラム⑪ 北海道の殖民軌道/今井啓輔
コラム⑫ 観戦鉄道/高 媛
第六章 寺社詣でとケーブルカー/三輪主彦
コラム⑬ 路面電車/黒田尚嗣
コラム⑭ 東京モノレール 成瀬純一
あとがき /山本志乃
編者
旅の文化研究所
神崎宣武(かんざき のりたけ)
1944年、岡山県美星町生まれ。旅の文化研究所所長、岡山県宇佐八幡神社宮司。民俗学。
『社をもたない神々』(角川選書、2019年)、『大和屋物語──大阪ミナミの花街民俗史』(岩波書店、2015年)
山本志乃(やまもと しの)
1965年、鳥取県鳥取市生まれ。神奈川大学国際日本学部教授。民俗学。
『「市」に立つ──定期市の民俗誌』(創元社、2019年)、『行商列車──〈カンカン部隊〉を追いかけて』(創元社、2015年)
書評・紹介
- 2021-01-06「交通新聞」
- 2021-01-09「朝日新聞」(情報フォルダー)
- 2021-01-31「読売新聞」評者:稲野和利
- 2021-02-26「週刊読書人」評者:南陀楼綾繁
- 2021-02「鉄道ピクトリアル」
- 2021-03「鉄道ジャーナル」評者:蜂谷あす美
- 2021-05「鉄道ピクトリアル」評者:三木理史
- 2021-05「鉄道ファン」
ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)
全集と詩人イメージ/名木橋忠大
全集と詩人イメージ
名木橋忠大(『立原道造 受容と継承』著者)
立原道造(1914~39)の清純なイメージの形成には、『四季』立原道造追悼号(1939・5)における諸家のエッセイが大きな影響力を持ちました。加えて全集の編纂方針もまたその一助となったようです。
立原の死から二年ほどで全三巻本の全集が刊行されました(山本書店、1941~1943)。編纂の中心となったのは堀辰雄ですが、第三巻に収録された立原の盛岡滞在時の手記にちょっと気になる箇所があります。
ゆふべの夢はたいへんなくらゐだつた。僕の関係のふかい人たちが殆ど全部あらはれた。みな不思議な場面ではあつたが。(①)
*
僕は、いま、ここにひとりゐる。これが自由だらうか。僕は、僕をつないでゐるさまざまの見えないものを見る。自由は日常のなかですつかりと拒まれてゐる、と、僕はかんがへねばならないのだらうか。逆に日常を拒むことで自由はやうやく得られると――しかし日常のない人間があり得るだらうか。空気のない鳥の飛翔のやうに。(②)かつて僕のした約束を、けふ、僕は、やぶらねばならなかつた。あのとき、あんなにもゆたかにした約束を、僕は忘れたのではなかつた。夢想することで、僕はその約束を果してゐるやうな錯覚にとらへられてゐたのだ。(③)
こんな内容が記されています。夢の中ではいろんな人が現れた。不思議な夢だった(①)。それなのにいま僕はひとりだ。自由は日常のなかで拒まれている(②)。そんな日常の中で僕は自分のした約束を破らねばならなかった(③)。――約束とは、盛岡の地で自身を新生させるという誓いのことです。この一連の記述から彼は意志の弱さを悔やんでいるように読めます。第二次全集(全三巻、角川書店、1950~1951)もこの形態でした。
異変が起こったのは第三次全集(全五巻、角川書店、1957~1959)で、この手記について読者には新たな事実が明かされました。実は①と②、②と③の間には次のような記述が差しはさまれていたのです(太字で示してみます)。
ゆうべの夢はたいへんなくらゐだつた。僕の関係のふかい人たちが殆ど全部あらはれた。みな不思議な場面ではあつたが。(①)
*
Nはかへつて行つた。僕はそれを望んだのだらうか。
あの別離が行はれてから、僕たちには、また平和が、かへつて優しさがかへつて来たのだ。しかし、ふたたびは、もとにはもどり得ない。彼の奪つたものも、僕の奪つたものも、互にあまりに多すぎる。
そしてけさ、Nはひとりかへつて行つた。
僕はいま、ここにひとりゐる、これが自由だらうか。僕は、僕をつないでゐる、さまざまの見えないものを見る。自由は日常のなかで、すつかりと拒まれてゐるとぼくはかんがへねばならないのだらうか、逆に日常を拒むことで、自由はやうやく得られると……。しかし日常のない人間があり得るだらうか、空気のない鳥の飛翔のやうに。(②)
僕はちひさな病ひをさへ持つてゐる、Nのかはりに。あるひは、Nは僕の病ひではなかつたらうか。病ひが僕を解き放し、ふたたび病ひは僕をつなぐ。かつて僕のした約束をけふ僕はやぶらねばならなかつた。あのとき、あんなにも、ゆたかにした約束を、僕は忘れたのではなかつた。夢想することで僕はその約束を果してゐるやうな錯覚にとらへられてゐたのだ。(③)
語句訂正の他、「N」と呼ばれる人物が出現しました。これにより手記の内容は大きく変わります。①②の箇所は先に読んだような、人がたくさん出て来る夢を見たけれど目が覚めたら一人になったという内容ではありませんでした。夕べの夢→今朝「N」が帰って行った→僕はひとりになったという文脈で、立原は「N」がいなくなったあと彼に奪われたものは戻ってこないと唇を噛んでいるのです。
立原は続けて日常において自由でいられないことを嘆き(②)、自分のした約束=新生への誓いを破ってしまったことを悔やみます(③)。ここでも彼は自身の意志の弱さを嘆いていたのではなく、日常を不自由にしていた「N」への押し殺した憤懣を吐露していたのでした。「N」を「病ひ」とまで記しています。「N」という「病ひ」のために、新生への誓いはめちゃめちゃになってしまった。――
手記の他の箇所で立原は「N」をかなり口汚くののしったりもしていて、第一次・第二次全集では「N」の個所は省かれてしまっています。
しかしなぜこんな処置が?
第一次全集には、実は「N」も編纂に加わっていました。「N」はこの手記を読んだ時、自分が厄介者だと思われていたことに大打撃を受けたといいます。堀辰雄は「N」に慰めの手紙を送り、「N」に手記の編集をまかせ、結果として「N」の記述は削除されたのでした。同時に、友人に悪感情を持つ立原もまた読者から隠蔽されました。
「N」は1948年に没し、堀も1953年に亡くなります。この箇所は第三次全集(1957~1959)から原文通りに示されるようになりましたが、第一次全集への掲載を見送ったあと戦災で失われてしまった書簡もあるといいます(保田與重郎宛に他人を誹謗した書簡等)。第一次全集の編纂方針は、立原のイメージ形成の方向を定めたと言えるのかもしれません。
鷗外、〈心〉をめぐる詩学/新井正人
鷗外、〈心〉をめぐる詩学
新井正人(『鷗外文学の生成と変容』著者)
日本でもっとも有名な近代小説は何か。
こう問われれば、おそらく多くの人が夏目漱石「こゝろ」(1914.4.20-8.11)を挙げることだろう。新潮文庫版の累計発行部数は1位。高等学校の教科書にも採録され続けている。たしかに、「こゝろ」は人々に読み継がれているようだ。
今から百年あまり前、「こゝろ」の単行本化(1914.9)に際し、漱石は「自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む」と新聞広告に書いた。広告文は同時代の読者に訴求するものでなければならない。そうであるなら、なぜ、こうした文言が広告文たり得たのか。
坪内逍遙は、日本近代文学の成立を画す評論『小説神髄』(1885.9-1886.4)において、数ある文学ジャンルの中から、とりわけ小説を自律的な芸術作品として特権化した。その際小説は、当時最新の学知であった心理学の知見を援用して、人間の内面心理を描き出すものであるべきだとされた。近代文学は、「人間の心」に特別な関心を寄せ、それを言葉によって「捕へ」ようとする小説表現として生を享けたのである。
その後明治期を通じ、「心」を中核として人間存在を捉え、それを描き出すものこそが小説であるとする意識は、徐々に人々のあいだに浸透した。なぜ、「こゝろ」の広告文があのような形で書かれたのか。もはや明らかだろう。それは広告文が、「こゝろ」を当時の小説規範を体現する作品として位置づけ、読者に提示するものだったからである。
そして、こうした規範は、近現代における文学のありかたを大きく規定する力をもった。多くの文学が「人間の心」を精細に語ることで小説たり得た。教育の場では、そうした小説が教科書に採録され、試験においても出題され続けた。私たちは、時に主人公の苦悩に共感し、時に心情の変移を主人公の成長として読む。さらには、読解を通じて自らの内面を凝視し、省みることを求められる。心情中心主義は私たちの読解を律し、自己認識のありかたにも影響を及ぼしている。
だからこそ、「人間の心を捕へ得た」「こゝろ」は、「自己の心を捕へんと欲する人々」によって近代文学の代表作とみなされてきたのである。
ところで、「こゝろ」を筆頭に、漱石文学は現代にも多くの読者をもつが、森鷗外の場合はどうだろうか。「舞姫」(1890.1)や「高瀬舟」(1916.1)など、一部の作品が教科書に載り続けてはいるが、漱石と比べて、取っつきにくい、わかりにくいと感じる人々が多いのではないか。
他でもない、かつての私自身がそうだった。とりわけ、晩年の歴史小説や史伝については、どのように受け止めたらよいのか戸惑うばかりだった。なぜ、鷗外文学はこうした違和の感覚を懐かせるのだろう。今から考えれば、そうした素朴な問いが本書に結びつく研究の端緒にあったように思う。そしてそれは、私自身が文学や小説に対してもってしまっていた先入見を、少しずつ解きほぐしていく作業でもあった。
世界史的に、近代文学と近代心理学の成立は、あたかもコインの表と裏の如く現象した。両者の共犯関係のもとに、人間存在は内面的主体として見出され、言葉によって表現されることで明確な姿形を与えられていった。事態は日本でも同様である。明治期、欧米の近代心理学が移入され、俗化しながら一般に浸透する過程と並行して、日本近代文学はその形を整えていった。まさに逍遙が意図したように。
こうした観点からみれば、鷗外文学はすぐれて同時代的な表現実践であったと言える。当時西欧では、心理学を諸学の基礎に据え、世界の事象を心理的な内容や過程に還元して理解しようとする心理主義が席捲していた。鷗外は、こうした〈心〉をめぐる諸学知を引き受け、極めて学理的に自らの文学を構築した。鷗外文学は、いわば〈心〉をめぐる詩学なのである。
だが、その営みはすぐれて近代文学的でありながら、同時に、当初からそれとは異質な何かをも抱え込んでいた。潜在し、ときに顔を覗かせたその水脈は、晩年の文業に至って流露する。鷗外文学を読むことは、心理学的な近代文学の範疇に収まらない、文学の別様へと読者を誘う。
本書は、鷗外の文学的営為の分析を通じて、心理学を中心に編制された世紀転換期西欧の〈心〉をめぐる諸学知が、近代日本において如何に受容され、展開されて行ったのかを実証する試みである。それは「人間の心」に中心化された近代文学を築きつつも、そこから超え出てしまった言葉の集積として鷗外文学の動態を捉える試みでもある。
そして、近代文学を相対視することは、私たちが生きうる生の多様性に改めて目を向けることへと繋がるだろう。近代文学をめぐる制度が産出した内省する主体は、ともすれば内面という隘路にはまり込む。その息苦しさからの出口は、おそらく、意識された内面の外部、自己の外側へと目を転じ、それを受け容れたときに見えてくる。
鷗外文学は近代を内在的に批評する。その言葉の集積は、近代の臨界点を生きる私たちに対して、別様の人間像や世界観への想像力を喚起するものであり得るだろう。
* * *
本書の刊行が、このような社会情勢の下でなされることになろうとは想像できなかった。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行は日本にも及び、感染爆発は回避したとされるものの、いまだ終息は見通せない状況にある。感染症は徐々に私たちの日常を侵蝕した。そして、「緊急事態宣言」下において、公衆衛生的な知と権力の遍在は明らかなものとなった。私たちは、生き延びるため、社会を守るため、日々絶えざる「自粛」を求められた。その後に到来するのは「新しい日常(ニューノーマル)」であるという。
知られるように、鷗外は日本で最初期の公衆衛生学者の一人だった。日本人による衛生学教科書の嚆矢『衛生新篇』(1897.6)の刊行など、様々な媒体を用いた啓蒙的言説の産出に加え、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長就任後には、軍内における腸チフスの予防接種を主導した。
こうして見ると、鷗外は公衆衛生的な知による個々人の統括を目論んでいたように見える。実際のところ、そうであったに違いない。だが同時に、事態はそう単純なのかとも思われる。鷗外はその文学的営為を通じて、近代的な主体、現下の私たちがそうであることを求められ、また自らそうあろうとした自律的主体が、否応なしに有してしまうしなやかさを仄めかしていたのではないか。生きさせる権力の網の中にあっても自らを変容させ、社会をも変容させ得る生の可能性。
私は鷗外の遺した言葉から、私たち自身のそうしたありかたへの勇気を汲み出したい、と思う。