「ヨソ者」の利点/桐村英一郎

「ヨソ者」の利点

桐村英一郎(『木地屋と鍛冶屋』著者)

 新聞社を定年退職後、生まれ育った東京を離れ、奈良県明日香村で六年ほど暮らしたのち、三重県熊野市波田須町に移り住みました。大都会に出るのに時間がかかるけれど、それがまた居心地よく、借家の窓から熊野灘を眺める生活もいつの間にやら十二年目です。
 コロナで海外旅行もままなりませんが、ある住民が「ここには海も山もいっぱいある。わざわざ外国まで出かけることはないよ」と言うのを聞くと、それもそうだと思います。まあマスクをせずに散歩でき、ときおり鹿や猿に出くわす日々は悪くありません。
 
 明日香村の時代、そして熊野に来た時分の興味の対象は古代史でした。現役時代は経済記者でしたから、歴史はずぶの素人。でも「シロウトのヨソ者」にもメリットはあります。それは「見るもの聞くもの新鮮で、しがらみがない」ということです。
 熊野の第一作は『熊野鬼伝説』という題で、坂上田村麻呂の鬼退治伝説の背景をさぐってみました。明日香村で住んでいた地区は、田村麻呂の父・苅田麻呂ともつながる渡来人が古代に定着したところです。ですから私には京の都にいた田村麻呂の知識も多少ありました。八世紀末から九世紀初頭の蝦夷征討で有名な田村麻呂は鈴鹿峠を何度も行き来したでしょうが、熊野には来ていないはず。それなのに近辺の鬼ケ城、泊観音、大馬神社などに彼の鬼退治伝説が根付いているのはなぜだろう。そんな素朴な疑問が探究に駆り立てたのです。
 そこにはどうやら『熊野山略記』というネタ本があったようです。この中世文書には「熊野三党(地元の豪族)が南蛮(南から来た海の民)を退治した」とあります。これら化外の民が鬼になり、天皇の命で制圧した熊野三党が田村麻呂になった。そう推測しました。
 熊野は昔から漁民、修験者、そして三山への参拝者など東北地方との交流が少なくありませんでした。近世になって伊勢路沿いの社寺が英雄譚を自社の縁起に取り入れた。そんな事情もあったと思います。地元の人は子供のころから聞かされ当たり前に思う伝説や伝承を新鮮な目で見直し、自分なりの仮説を立ててその立証を試みるのは楽しいものです。
 次の作品『イザナミの王国 熊野』の仮説はもっと突拍子のないものでした。熊野三山のカミ、すなわち熊野速玉大社の主祭神・速玉(早玉)神と熊野那智大社の主祭神・夫須美(結)神の原郷はインドネシアのセラム島だ、なんて説を唱えたのです。
 詳しくは拙著をお読みいただくしかありませんが、ハイヌウェレという南島の穀物創世神話が黒潮に乗って熊野に流れ着き、「結早玉(むすびはやたま)」という熊野独自の神格に育った、と考えました。
 
 明日香村時代、古代史の泰斗である故上田正昭先生にお世話になりました。『大和の鎮魂歌』に一文を寄せていただき、次の『ヤマト王権幻視行』では「幻を見たんじゃ批判できないなあ」と私をからかいながら、歴史地理学の千田稔氏と一緒に巻末に載せた座談会に参加してくださいました。
 「君は気楽になんでも書けていいなあ」「つまらない古代史マニアになりなさんなよ」といった先生の言葉を思い出します。仮説検証型のアプローチをする場合、できるだけ文書や書物に当たる一方、現場を訪ねて自分の目で確かめる。そして専門家が「もしかしたら、そんな可能性もあるかもしれない」と思うぐらいまで迫ってみたい。そう自分に言い聞かせてきたのは、上田先生のそんな言葉がいつも頭にあったからです。

 私はこれまでもっぱら古代史の探究を楽しんできました。それが七月社から出版した『木地屋幻想』で一気に近世に飛んだのです。木地屋(木地師)は山中に暮らし、トチ・ブナ・ケヤキ・ミズナといった木を刳り抜いて椀や盆などを作る職人です。なぜ彼らに惹かれたか、は『木地屋幻想』やその続編でもある今回の『木地屋と鍛冶屋』のあとがきをお読みください。古代に黒潮に乗ってやってきた人々にも、山々を渡り歩いた漂泊民にも、火と水と風を操る鍛冶屋にもロマンを感じます。
 『木地屋と鍛冶屋』には現存の方々とその家族が登場します。時代は下っても「仮説を立てて、その検証を試みる」という手法は変えていません。それは「家系の謎解き」のくだりです。拙著を開いてご覧になってください。

木地屋と鍛冶屋──熊野百六十年の人模様

桐村 英一郎 著

2022年2月24日

定価 1,200円+税