〈出会い〉の記号学/中村三春

〈出会い〉の記号学

中村三春(『〈原作〉の記号学』著者)

かつて仙台で大学の助手をしていた頃、街にヨーロッパ映画を多く上映する映画館ができて、足繁く通っていた。とはいえ、その後地方大学を転々とする身で、本職の文学の方が忙しく、どこで映画と文芸との関わりにめぐりあったのか。想い起こすと、トニー・オウ監督の『南京の基督』(1995)に行き当たる。芥川龍之介原作だから、文芸映画と言ってよいわけだが、なぜこれを見たのかよく覚えていない。しかも、文芸原作の映画化であるが、私が着目したのは、映画がたぶんあまり意識もせずに原作から変更した作中人物の髪の毛の色に過ぎない。しかしそこを切り口に読み直し、見直すと、原作の「南京の基督」の持つ意味がこれまでとは大きく違ったものに思われてきた。髪の毛の色の変更という些末な事柄も、やはり文芸テクストの解釈にほかならず、また細部の解釈は必ずや全体の把握にも波及するのだ。この作品や、この作品にまつわる原作現象との出会いが、文芸における映画的次元の追究へと向かう契機となったことは間違いがない。いつどこに出会いがあるのか、本当に分からないものである。

この十年来、科研費の研究課題であったため、1950年代の日本映画を重点的に見て問題を探っていたが、そんなある時、岩波書店『文学』の「文芸映画の光芒」特集に執筆の依頼を受けた。編集部と相談しながら、篠田正浩監督の『心中天網島』(1969)を論じることにしたのだが、原作の近松も浄瑠璃も篠田監督作品についても、いずれも全くの勉強の仕直しであった。にもかかわらずこのテーマに決めたのは、同じ近松作品を下敷きとして、義太夫節を愛した太宰治が晩年に「おさん」(1947)という小説を書いており、かつてそれを論じていたからである。篠田監督の『心中天網島』は古典に題材を採った超絶的な前衛作品であるが、太宰の「おさん」も太宰的な絶唱の一つである。ただし、「おさん」は同時期の『斜陽』や『ヴィヨンの妻』に比べると評価が高くなく、私はこれを取り上げたことに思い入れがあった。原作現象は複数のジャンルをまたぎ、複数の作者の創作を包んで拡がる要素がある。それにしても依頼を受けなければ、本気であの超絶的な『心中天網島』に立ち向かうことができただろうか。このことも一種の出会いというか、意想外に到来する契機であったのだろう。

しかし出会いと言えば、まさに科研費の共同研究のメンバーたちとの出会いをも忘れることはできない。私は研究代表者を務めたが、研究水準においても代表であったとは到底言えない。多士済々で個性的な多くのメンバーたちに教えられ、鼓舞されて共同研究を進めたのである。その中でも国際派の日本文学・文化研究者である中川成美氏が、パリの日本文化会館で川端康成展が開催されるのに併せて、科研費によるワークショップをパリで行うことを提案された。当初の予定になく、国内での活動に限定していたので驚天動地だったが、何とか準備を整えて2014年10月に川端原作の文芸映画に関するワークショップの実現に漕ぎつけ、私も豊田四郎監督『雪国』(1957)に関する研究発表を行った。そこでフランスの研究者との新たな出会いがあり、また研究に関する視野の広がりを得た。その成果は中村三春編『映画と文学 交響する想像力』(2016、森話社)に収録されている。出会いというのは、予想できないものであり、予想できない結果を生むものである。

原作現象の研究は、いずれにせよテクストと第二次テクストとを接続する操作に関わるのだが、考えてみれば私たちの生命も文化も社会も、自己と他者との意想外の出会い、あるいは接続の連なりにほかならない。出会いという現象は、接続という機能の一般理論的な追究に結びつくものではないだろうか。私は目下、文芸を中心として、様々な生命・文化・社会にも通じるような、接続の理論を構想しているところである。

〈原作〉の記号学──日本文芸の映画的次元

中村三春 著

2018年2月28日

定価 3,200円+税

『琉球王権と太陽の王』第Ⅱ部第四章「三山時代の内情」を無料公開!

2018年1月に刊行された『琉球王権と太陽の王』の第Ⅱ部第四章「三山時代の内情」をPDF公開いたします。

三山時代は、沖縄に尚氏という統一王統ができる前の時代、北山・中山・南山という3つの勢力が鼎立していたといわれる、1322年ごろから1429年までの時代です。
吉成氏は、これまでの著書でも、この三山時代の虚構性(単純に3つの勢力が台頭し、争っていた時代ではない)を様々な観点から指摘してきました。
三山時代は琉球の勢力が明に朝貢を始める時期で、それゆえ中国や朝鮮の史料から琉球の王たちの動向が断片的にはわかるのですが、琉球にはまだこの時代には史料らしい史料はなく、ヒントは多いながら謎に包まれた時代です。
本章では三山の王たちの名前とその朝貢のありように着目することで、整合的に三山時代の王たちの関係性を解き明かしていきます。

短い章ですが、これまでの琉球史の通説を覆す、スリリングな章です。

ぜひご一読ください!

第Ⅱ部第四章「三山時代の内情」(PDF/全14ページ)

こんにちは。七月社です

こんにちは。七月社です。
ホームページの開設に合わせてブログを始めます。

近刊や新刊情報や書評(まだ何も出てませんが)の紹介、出版や研究にまつわるあれこれを綴っていきたいと思います。
それから刊行ジャンルに関連する学会や研究会の情報なども発信していければ。

どうぞよろしくお願いします。

沖縄研究と観光戦略/吉成直樹

沖縄研究と観光戦略

吉成直樹(『琉球王権と太陽の王』著者)

沖縄研究には沖縄観光の集客のための戦略が色濃く影を落としてきたのではないかと思われるので、そのことについて書きたい。これは、今回、出版した本のどこかに書き込もうと思ったが、ついに入れることができなかった内容である。
近年の沖縄研究に影響を与えたいくつかの政治的な要因についてはすでに書いているので、別稿を参照していただきたい(吉成直樹・高梨修・池田榮史『琉球史を問い直す—古琉球時代論』森話社、2015年)。ここで書くのは、多田治氏の『沖縄イメージを旅する』(中央公論新社、2008年)を読んで、はじめて腑に落ちたことである。
1975年の沖縄海洋博覧会後の、反動不況の対策として自治体の要請を受けた大手広告代理店が「沖縄を売る」「地域を売る」宣伝戦略を打ち出し、「沖縄の歴史と文化」を押し出す観光キャンペーンを張った。
多田氏によれば、観光振興には県民全体の協力が必要だとして、観光客と県民の間の見えない壁を取り除くために、観光関係者だけではなく一般の県民への意識づけも図ったという。つまり、沖縄キャンペーンは、観光客だけに向けられたものではなく、県民に「沖縄県民」としての意識を促すキャンペーンでもあったのである。その内容は「沖縄の歴史」の開発が必要であり、他の観光地にもある自然の美しさや南国ムードではなく、城跡・民謡・祭りなど、沖縄の歴史に関連した観光素材を開発することだった。
この観光キャンペーンは、時々の政治状況に翻弄され続け、沖縄県の人びとがみずからのアイデンティティを独立国として存在していた琉球国に求めていた心情に強く働きかけたことは容易に予想できる。「大いなる琉球王国」への強い憧憬には当然のことながらいつまでも基地問題などを解決しようとしない本土に対する反感もあろう。
この観光キャンペーンは、また高良倉吉氏の琉球国の黎明期の大交易時代をダイナミックに描いた『琉球の時代−大いなる歴史像を求めて』(筑摩書房、1980年)の刊行とも前後している点は見逃すことはできない。
高良氏がこうした動向に無縁ではなかったことは、「この本(『琉球の時代』−筆者補)が出た後、同志というべき二人の仲間と連携しつつ、私は「琉球プロジェクト」と呼びたい事業に取り組んできた」と述べていることからも窺い知ることができる。沖縄タイムス社の記者は、アジア取材を大幅に取り入れた琉球大交易時代キャンペーンを紙面で展開してくれ、地元放送局はアジアの中の「琉球」をテーマとする歴史番組を数多く制作・放映し、高良氏もまたそれらの事業に参画し、執筆者として、同行講師として、あるいはレポーターとしての役割を担ったという(ちくま学芸文庫版『琉球の時代』の「あとがき」)。
高良氏が言う「琉球プロジェクト」とは、まさに大手広告代理店の意図した沖縄観光キャンペーンと重なる。「琉球プロジェクト」や「沖縄観光キャンペーン」の是非について問うつもりはまったくないが、ここで注意したいのは、行政、沖縄県民、メディアとともに研究者も一体となって推進された点である。ある研究成果が、メディアによって喧伝され、多くの人びとの間に流通すると、それが強固な現実として共有されてしまう可能性は否定できない。それは研究者間であっても同じである。ある歴史像が当然のこととして共有されてしまうと、研究者でさえ疑うことができなくなるという問題が生じる。
こうした問題は時代の制約も多分にあり、おそらくは特定の個人の問題のみに帰することはできない。しかし、どれほど一世を風靡した本や論文であっても、ごく一部の例外を除いて20〜30年ほどで寿命が尽きてしまうことを考えると、時代の制約の呪縛から解放されると、すでに準備されていた新たな研究が既存の研究を乗り越えるサイクルが急激に動き出すのだろうと思う。

琉球王権と太陽の王

吉成直樹 著

2018年1月25日

定価 3,000円+税

〈原作〉の記号学──日本文芸の映画的次元


試し読み

〈原作〉の記号学 日本文芸の映画的次元

中村三春 著

定価:本体3,200円+税

2018年2月28日刊
四六判上製 / 288頁
ISBN:978-4-909544-01-8


すべての創作物は第二次テクストである
文学作品を原作とし、その変異としてあるはずの文芸映画が、にもかかわらず、かけがえのない固有性を帯びるのはなぜか。
『雪国』『羅生門』『浮雲』『夫婦善哉』『雨月物語』『山びこ学校』など戦後日本映画黄金期の名作から、『心中天網島』などの前衛作、『神の子どもたちはみな踊る』『薬指の標本』といった現代映画までを仔細に分析し、オリジナリティという観念に揺さぶりをかける。


目次
序説 文芸の様式と映画の特性──豊田四郎監督『雪国』

Ⅰ 〈原作現象〉の諸相
第一章 〈原作〉の記号学── 『羅生門』『浮雲』『夫婦善哉』など
第二章 《複数原作》と《遡及原作》── 溝口健二監督『雨月物語』
第三章 古典の近代化の問題── 溝口健二監督『近松物語』
第四章 〈原作〉には刺がある── 木下恵介監督『楢山節考』など

Ⅱ 展開される〈原作〉
第五章 意想外なものの権利── 今井正監督の文芸映画『山びこ学校』と『夜の鼓』
第六章 反転する〈リアリズム〉── 豊田四郎監督『或る女』
第七章 擬古典化と前衛性── 篠田正浩監督『心中天網島』
第八章 混血する表象── トニー・オウ監督『南京の基督』

展望 第二次テクスト理論の国際的射程── 映画『神の子どもたちはみな踊る』と『薬指の標本』

索引→公開中


著者
中村三春(なかむら・みはる)

1958年岩手県釜石市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退。博士(文学)。
北海道大学大学院文学研究科教授。日本近代文学・比較文学・表象文化論専攻。
著書に『フィクションの機構』1・2、『新編 言葉の意志 有島武郎と芸術史的転回』、『修辞的モダニズム』、『〈変異する〉日本現代小説』(以上、ひつじ書房)、『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』、『花のフラクタル』、『物語の論理学』(以上、翰林書房)、編著に『映画と文学 交響する想像力』(森話社)など。

※プロフィールは刊行時のものです

書評・紹介

ほんのうらがわ(著者による刊行エッセイ)

琉球王権と太陽の王


試し読み

琉球王権と太陽の王

吉成直樹 著

定価:本体3,000円+税

2018年1月25日刊
四六判上製 / 320頁
ISBN:978-4-909544-00-1


正史が描く虚構の王たち
舜天王統、英祖王統など、琉球の史書に登場する初期王統は、本当に存在したのか?
そして、琉球の王たちはいつから「太陽の王」になったのか?
進展目覚ましい琉球考古学を主軸に、「おもろさうし」や神話学、遺伝学、民俗学などの成果を動員し、琉球王府の正史に潜む虚構の歴史を照らし出す。琉球史の定説をくつがえす一冊。


目次
はしがき

Ⅰ 古琉球時代の歴史像
第一章 グスク時代以前の琉球弧
第二章 城久遺跡群とグスク時代の幕開け
第三章 グスク時代の沖縄社会
第四章 三山時代から琉球国へ

Ⅱ 琉球王権の成立と「太陽の王」の観念
第一章 アマミキヨをめぐる問題
第二章 舜天王統は実在したか
第三章 英祖王統は実在したか
第四章 三山時代の内情
第五章 太陽神と権力者──「てだ」「てだこ」をめぐる問題
第六章 「太陽の王」の成立
結論


引用・参考文献
あとがき
索引→公開中


著者
吉成直樹(よしなり・なおき)
1955年生。秋田市出身。法政大学沖縄文化研究所教授。理学博士(東京大学)。地理学、民族学・民俗学。
『琉球の成立──移住と交易の歴史』(南方新社、2011年)、『琉球史を問い直す──古琉球時代論』(共著、森話社、2015年)、『沖縄文化はどこから来たか──グスク時代という画期』(共著、森話社、2009年)、『琉球王国と倭寇──おもろの語る歴史』(共著、森話社、2006年)

※プロフィールは刊行時のものです

書評・紹介

ほんのうらがわ(著者による刊行エッセイ)