〈ケア小説〉からの眺め/佐々木亜紀子

〈ケア小説〉からの眺め

佐々木亜紀子(『ケアを描く──育児と介護の現代小説』』編者)

『ケアを描く──育児と介護の現代小説』は、2001年12月から始まった研究会の18年間の成果のひとつです。研究会の開催は、100回を超えました。長く続く研究会ですが、発足当初から、中心的な研究拠点はありません。連絡係も五十音順の交代です。この2点は基本的には現在も変わっていません。そのため、会合場所もさまざまです。最初は名古屋市女性会館(現「イーブルなごや」)でした。その後、名古屋、東京、奈良、神戸にある大学施設や、鶴舞中央図書館の集会室、名古屋市芸術創造センター、名古屋市生涯学習センター、京都市国際交流協会といった公共施設を利用し、宿泊施設で合宿をしたこともあります。

18年といえば、乳児が大学生になるほどの年月です。この研究会も、研究方向を見定めなかったよちよち歩きから、『〈介護小説〉の風景――高齢社会と文学』(2008年、増補版2015年、森話社)を経て、より広い〈ケア〉という視野から今回の『ケアを描く』へと歩みを進めました。
発足当初、大学院生だったメンバーも、それぞれに次のライフ・ステージに立つことになりました。就職、転職、海外赴任の経験、親やきょうだいの看取り、出産、育児など様々です。人生の新しい局面に向かうたびに右往左往しながら、それでもわたしたちが手放さなかったのは、小説を読むことと論ずることでした。
困難や多忙を抱えるほどに、小説はその行間から別の相貌をあらわし、より深く心に刻まれましたが、一人でそれを味わうにとどまらず、この研究会に集まって論じ合いました。小説の登場人物の設定や描写方法、視点や語りの方法はもちろんですが、文学研究の方法や、評価史とその政治性などもよく議題になりました。みなと忌憚なく話し、議論するのは、とにかく楽しく心躍る時間でした。
『ケアを描く』はそうした時間から生まれましたので、論者自身が心惹かれた思い入れのある小説を、各々選んで論じています。本書を通して、研究会でのわたしたちの熱く楽しい議論の一端を味わっていただければ幸いです。

研究会発足の2001年はアメリカで「9.11事件」のあった年です。それはわたしたちに、それまで見えなかった/見ようとしなかった世界の有様をつきつけました。見ようとしなければ見えないものが、世界にはたくさんあることに気づかされたのです。外側の世界だけではありません。わたしたちの足元にも、不可視化されている幾多のものがありました。
その一つは介護です。有吉佐和子が『恍惚の人』を世に出す1972年まで、日本では高齢者の〈ケア〉は、「主婦」という誰かが家庭内という見えない場所でしている〈私事〉に過ぎなかったのではないでしょうか。
育児もまた、〈公〉からは見えない領域でした。両親と女の子と男の子とが犬を連れて公園へ休日に出掛けるといった風景は、自家用車のCMにはあったでしょう。けれども、そもそも子どもを授かるまでの道程や、一人で養育を担う重圧や孤独感、育児期間に仕事上のキャリアを手放す焦燥感や挫折感は、女性個人の運命や能力として片付けられていました。レイ・アンドレは「主婦」を「忘れられた労働者」と呼びました(『主婦――忘れられた労働者』矢木公子ほか訳、勁草書房、1993年)が、介護や育児は「主婦」がする家事の一環として、長らく「忘れられ」ていたのです。
しかし〈ケア〉という切り口からは、ケアをする人/ケアを受ける人、それらの人々と共に働き、学び、生きるその多様な人生が見えてきます。〈ケア小説〉は、それらの「忘れられた」人々の行為を生き生きと描いています。
たとえば、角田光代の『八日目の蟬』では、主人公希和子が赤ん坊を誘拐する場面から始まります。そして「薫」と名づけた赤ん坊のために希和子がまずしたのは、薬局で紙おむつとミルクを買うことでした。母親がすれば当然のこととして記述されることのない行為も、誘拐犯という小説ならではの登場人物だからこそ、〈ケア〉の行為として際立ち、可視化されるのです。

わたしたちは〈ケア小説〉から、多様な生き方や新しい世界の読み方を学び、時に慰めや励ましを得、人生のステージをなんとか切り拓く支えにしてきました。本書を手に取った方もまた、〈ケア小説〉という窓から、世界を眺め、新しい小説との出会いを楽しんでくださることを願っています。

ケアを描く──育児と介護の現代小説

佐々木亜紀子・光石亜由美・米村みゆき 編

2019年3月31日

定価 2,000円+税

ケアを描く──育児と介護の現代小説

ケアを描く 育児と介護の現代小説

佐々木亜紀子・光石亜由美・米村みゆき 編

定価:本体2,000円+税

2019年3月31日刊
四六判並製 / 256頁
ISBN:978-4-909544-05-6


子ども・障がい者・高齢者、そしてすべての人々
長らく家庭というとじた領域で、主に女性によって担われてきた〈ケア〉労働。介護の外部化や男性の子育て参加など状況は大きく変わりつつあるものの、密室育児や介護施設での虐待など、依然として問題は山積している。そのような、揺れるケアの現場を、フィクションはどのように描いているのか。小川洋子・多和田葉子・角田光代・三浦しをん・辻村深月・桐野夏生・金原ひとみなどを中心に、〈ケア〉というキーワードから現代小説に新しい光をあてる一冊。


目次
はじめに──〈ケア小説〉から見えてくるもの/佐々木亜紀子・光石亜由美

Ⅰ 育児をめぐる〈ケア小説〉──〈母〉と〈父〉の多様性

第1章 〈母親になろう〉とする母子たちの物語──角田光代『八日目の蟬』/光石亜由美
コラム① ママ友たちのカースト──桐野夏生『ハピネス』『ロンリネス』/崔正美
コラム② 〈イクメン小説〉のなくなる日──川端裕人『ふにゅう』・堀江敏幸『なずな』/光石亜由美

第2章 ケア小説としての可能性──三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』/米村みゆき
コラム③ 定型化された「家族」のイメージを批評する──是枝裕和監督『万引き家族』など/米村みゆき
コラム④ 「夫婦を超え」ていくには──ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』/飯田祐子

第3章 弱さと幼さと未熟さと──辻村深月「君本家の誘拐」『冷たい校舎の時は止まる』/古川裕佳
コラム⑤ 「毒親」の呪縛と「毒親」離れ──姫野カオルコ『謎の毒親──相談小説』/光石亜由美

第4章 家政婦が語るシングルマザー物語──小川洋子『博士の愛した数式』/佐々木亜紀子
コラム⑥ 出会いを生きる子ども──小川洋子『ミーナの行進』など/佐々木亜紀子
コラム⑦ アウトサイダー・アートをめぐる小説──村上春樹『1Q84』・小川洋子『ことり』/佐々木亜紀子

Ⅱ 介護をめぐる〈ケア小説〉──高齢者・障がい者・外国人

第5章 ケアと結婚と国際見合い──楊逸「ワンちゃん」『金魚生活』/尹芷汐
コラム⑧ 外国語を話す家族たち──温又柔「好去好来歌」/尹芷汐

第6章 ディストピアの暗闇を照らす子ども──多和田葉子「献灯使」/磯村美保子
コラム⑨ ワンオペ育児者は逃げられない──金原ひとみ『持たざる者』/磯村美保子
コラム⑩ 家族介護をどう描くか──水村美苗『母の遺産──新聞小説』/山口比砂

第7章 新しい幸福を発見する──鹿島田真希『冥土めぐり』/飯田祐子
コラム⑪ 障がい者の恋愛と性と「完全無欠な幸福」──田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」/飯田祐子
コラム⑫ 心の中はいかに表象されるのか──東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』/米村みゆき

あとがき/米村みゆき
作品名索引→公開中


編者
佐々木亜紀子(ささき・あきこ)

愛知淑徳大学・愛知学院大学ほか。日本近現代文学、国語科教育。
『〈介護小説〉の風景──高齢社会と文学[増補版]』(共編著、森話社、2015年)、『〈変態〉二十面相──もうひとつの近代日本精神史』(共著、立花出版、2016年)

光石亜由美(みついし・あゆみ)
奈良大学。日本近代文学(自然主義文学、セクシュアリティ研究)。
『自然主義文学とセクシュアリティ──田山花袋と〈性欲〉に感傷する時代』(世織書房、2017年)、「愛は国境を越えるか?──辻仁成・孔枝泳『愛のあとにくるもの』における日韓合同小説の試み」(『奈良大学紀要』第45号、2018年3月)

米村みゆき(よねむら・みゆき)
専修大学。日本近現代文学(宮沢賢治、村上春樹)、アニメーション文化論(宮崎駿、高畑勲)。
『アニメーション文化──55のキーワード』(共編著、ミネルヴァ書房、2019年)、「「動物アニメ」の想像力──高畑勲のアニメーション映画と宮沢賢治」(『文藝別冊 高畑勲』河出書房新社、2018年8月)

書評・紹介

  • 2018-06-28「週刊読書人」
    評者:東畑開人(十文字学園女子大学准教授)
  • 2019-06「月刊ケアマネジメント」
  • 2019-07-20「図書新聞」
    評者:泉谷瞬(大谷大学任期制講師)
  • 2019-09「おはよう21」
  • 2020-10「ジェンダー史学」
    評者:荒井裕樹(二松学舎大学)

ほんのうらがわ(著者による刊行エッセイ)

吉田綱富について/水野道子

吉田綱富について

水野道子(『現代語訳 童子百物かたり』著者)

『童子百物かたり』の著者の吉田綱富のことについては、すでに前書きや解説で触れていますが、綱富が体験した当時の様子や人柄が偲ばれるところを、著者自身が著わした『吉田綱富一代記─勤書之外諸雑記─』の中から一部紹介したいと思います。

米沢藩の下級藩士、吉田綱富(通称・作弥)が生まれたのは、宝暦6年(1756)の11月で、「子年・子の月・子の日・子の刻」だと記されています。子(ね)が重なっているのは、驚きです。

綱富が21歳の時、父親が中風で倒れたときのことを次のように記しています。

父の藤助は、手足がきかなくなって、そのまま寝たきりになってしまい、子供のように下のこともおしえることができなくなった。三度の食事も側らで食べさせてやらなければならなかった。
そして、何も話さなくなってしまった。ただ「作弥、作弥」と呼びはしたが、「何かご用ですか」ととんでいっても、無言で、しばらくすると、また「作弥、作弥」と、終日終夜用事もないのに呼ばれる有様であった。
下のことも、時をかまわずたれっぱなしなので、毎日毎夜、寝床の下藁の始末は、5、6寸ばかりの筒に切った藁にして取り替えた。
雪の頃の極寒の夜の汚れ物の洗濯には難儀した。もとより困窮者であるから余分の着替えもなく、汚れ物はその夜のうちに洗いすすいで、こたつで乾かして着替えさせた。

このように、当時の介護の厳しさが伝わってきます。
 
綱富は、さまざまな役を経て、文政3年(1820)65歳のときに、その身一代御馬廻りに召し入れられ、上杉鷹山公の住まわれていた三の丸御殿の御台所頭を仰せ付けられます。
文政3年、鷹山公の孫にあたる鶴千代様(12代斉憲公 1820~1889)のお誕生のときには、鷹山公から御祝の産着を差し上げる役をお仰せ付かりました。その産着は、鷹山公の御部屋様が80歳のお年でご自分で仕立てられたものでした。
鶴千代様の母君は鶴千代様が生まれて間もなく亡くなられたため、鷹山公は鶴千代様を三の丸御殿に引き取り、父の斉定公が江戸からお帰りになられる翌年までみなで面倒を見るようにと仰せられたということです。

文政5年(1822)に鷹山公が亡くなられてから、綱富は三の丸御殿御屋敷の将、そして、三の丸御殿に入られた分家の駿河守様の御屋敷の将となります。
そのころ、幼かった斉憲公やご兄弟が、御殿からたびたび御屋敷に遊びにみえられたことが記されています。

文政5年9月6日、物見櫓(ものみやぐら)の下にあけび棚を作っておいたところ、あけびが見事に熟したので、お子様方を御案内した。お子様方は大変喜ばれ、40個ほどおとりになられ、そのあと、自分のところの座敷でゆるゆるお遊びになって帰られた。
あけびがなると、「おやぐらのあけびが、今を盛りに口あき、見事でございます。今日は日和もよろしいようでございますので、なにとぞお出かけになられますように。耄(おいぼれ)が御案内申し上げます」とお知らせした。
このとき(文政8年8月)は、八時(午後2時頃)いらっしゃったので、御門前へお迎え申し上げた。あけびを50個余りお手柄あそばされ、それから物見櫓に入られて御庭前御屋敷中ごらんになられたので、あちこち御案内申し上げた。

お子様方は、ことに物見櫓がお気に入りのようで、随所に出てきます。また、綱富は、あけびだけでなく、山吹やつつじ、海棠(かいどう)の花見にも御案内して、親しくお仕えしていました。
文政9、10年頃は、若殿様(斉憲公)が7、8歳の頃で、「若殿様御弓射に入らせられ候に付、御送迎前々の通」というように記していて、よく弓を射に来られたようです。
綱富も70歳くらいであったので、孫とのふれあいのような感じでお仕えしていたのではないでしょうか。

こうした若殿様と綱富の交流は、隠居した後にも見られます。
天保12年、綱富が86歳頃、殿様になられていた斉憲公が、自分のことを変わりはないかとお側の人にお尋ねになられたということを聞き、ありがたいことと記しています。
また同じ年、殿様が白布高湯よりお帰りのことを聞き、綱富は屋敷裏の街道を前日より掃除して、その日の昼頃街道端に敷物をしいてお待ちしていたところ、殿様が馬で通られたので拝上奉った。殿様は帰られてから、自分のことをお噂され、御酒や御肴・お菓子を内々に使いの者より下された。ありがたく冥加至極感涙に及んだということも記されています。
 
綱富の一世紀に近い一生には、まだまだいろいろなエピソードがありますが、紹介しきれませんので、いずれ『綱富一代記』を翻刻して、皆様にお伝えしていければと思います。

現代語訳 童子百物かたり──東北・米沢の怪異譚

吉田綱富 著 水野道子 訳

2019年3月8日

定価 2,300円+税

父の子守唄/野本寛一

兵士たちの子守唄

野本寛一(『近代の記憶』著者)

私が菅山村立国民学校(現静岡県牧之原市)に入学したのは昭和一八年(一九四三)のことだった。祖父は没し、父は戦死、伯父は南方に出征中、家をとりしきっていたのは祖母の千代(明治二六年生まれ)だった。入学祝いの膳には半分に切られた身欠鰊がのっていた。配給の品である。入学祝いは「スポーツマンナイフ」という耳なれない商標を捺されたナイフで、私がほしかった「肥後守」ではなかった。学校には奉安殿があり、校舎の外壁の板張りには木製の巨大なプロペラが固定されていた。力自慢の高等科の男子たちがこれを力まかせに手動で回転させ、回転数を競っていた。そのプロペラは大井航空隊から寄贈されたものだと言われていた。

家の北方に向けて三キロほど進めばそこは牧之原台地である。そこに横須賀鎮守府所属の飛行場が建設された。昭和一七年(一九四二)三月完成、四月には第一三連合航空隊に編入され、大井航空隊と称された。練習航空隊に指定され、偵察教育がなされていた。練習機と呼ばれる赤い機体の小型機が吹き流しをつけて毎日家の上空を飛行して南に向かった。大人たちは、相良海岸の沖にある愛鷹岩に向かって飛ぶのだと語っていた。愛鷹岩は八大竜王の島だと伝えられていた。

私の父は昭和一三年(一九三八)二月二八日、日中戦争で戦死していた。それは、私が満一歳にもならない時だった。したがって、私は父親に関する記憶を全く持っていない。学齢前後の私に対して、近隣の人びとや遠縁にあたる大人たちはよく次のように語りかけた。「お父さんの敵討ちをしなければならない」「大井航空隊に入って飛行機乗りになって仇を討つのだ」──異口同音のように聞かされた。家の後方に大井航空隊があったことも関係している。入学して一年、二年とたつうちに、自分の運動神経の鈍さを自覚するようになっていた。私は、子供ながら内心困惑した。「飛行機乗りには勉強もできて、運動神経も良くなければなれない」と聞いていたからである。子供である。平素はそんなことは忘れているのだが、大人たちから仇討ち話を聞かされると「自分には無理だろう」という思いが浮かんできて、かすかに心が疼いた。
一方、絵本の中には航空服の似合う兵士が夜空を仰ぐ凛々しい姿が描かれていた。そして傍には軍歌の歌詞が書かれていた。

恩賜の煙草いただいて 明日は死ぬぞと決めた夜は 荒野の風もなまぐさく ぐっと睨んだ敵空に 星がまたたく二つ三つ──

歌詞は記憶しているし、今でも歌唱することができるのだから、よほど心に響いていたものだと思われる。
しかし、私が軍国少年になる前、国民学校三年生の夏に戦争は終わった。家の中のラジオから流れてくる玉音放送は裏庭の柿の木の下で聞いた。もとより意味は理解できなかった。「軍国少年以前」とも言うべき年齢だったのだが、私の心の中には幼い日の葛藤が古傷のように残っている。

教科書に墨塗りもしたが、少年の私にとって釈然としなかったのは、国語の考査で旧字体を書いて数箇所罰点をもらったことだった。

高校二年生の頃だったろうか。めずらしく母が戦時中のことを口にした。──育った家の前方に滝谷という姓の農家があった。滝谷家の後継の長男善一さんが戦地から無事に帰還した。ムラびとたちが集まって賑やかに帰還・凱旋祝いをした。「滝谷善一君、凱旋万歳」──万歳三唱の声が聞こえた。母はその万歳の声を家の前の茶畑の中で聞き、しゃがみ込んで泣いたという。善一さんの帰還はムラびとと同様よろこばしいことなのだが、自分の夫はいくら待っても絶対に帰ってくることはないのだという思いがこみ上げてきて泣けたのだという。私がその母の気持を噛みしめることができたのは、『万葉集』の防人の歌を読んだ時だった。「防人に行くは誰が夫と 問ふ人を見るが羨しさ 物思ひもせず」(四四二五)という歌は心に沁みた。この「羨しさ」は深刻である。防人の歌には虚構性があるという説もあるのだが、万葉時代の悲しい「羨しさ」が近代にも存在したことは、人間として何とも情けないことだと思った。

父を戦争に奪われた私は、幼い頃から父がいないという前提で育ち、暮らしてきたので、それはごく自然のこととなり、苦痛を感じることはなかった。父のいないことに困惑を覚えたのは自分が父親になってからだった。──父親に肩車をしてもらったことも、手をつないでもらったこともない。怒鳴られたこともない。反面教師としての父親像すらないのである。父にかかわる感動が皆無である。「手探りでの父親」にしかなれなかった。とにかく父親像がないのだ。父親像が伝承されなかったのである。のみならず父親が伝えてくれるはずの伝承世界のすべてが断絶されたのである。
長男が反抗期を迎えた頃、「たまには家に居てください」という妻の言葉に対して、「俺は親父なしで育った。父親が生きているだけで上等だ」と嘯きつつ民俗を学ぶ旅を重ねてきた。ひどい父親だった。戦死の影響はその子供に及ぶばかりではなく、戦死者の孫、さらには曾孫にまで及ぶことがある。戦争の痕、そのおそろしさは、深く潜行し、尾を引くのである。

妻がある時呟いた。「満一歳にならない幼な子と別れて出征して行ったお父さんの気持ちはどんなだったでしょう」──戦地でわが子の成長を想像する。見たい。会いたい。会えない。──こうした思いを抱きながら戦地で倒れた不帰の父親は数えきれない。
平成二九年、私の母は父の命日一月二八日に一〇三歳で父のもとへ旅立った。母が保管していた父の遺品の中に私が見たことも聞いたこともなかった小さな手帳があった。それは、父が従軍中に折々のメモを記したものである。鉛筆書きの文字の中には薄くてよく読みとれない部分もあった。その手帳の中に、おそらく日中戦争中に兵士たちの間でひそかに歌われていたと思われる子守唄が記されていた。判読してみると、それは叙事性を帯びて六番まで続くものだった。

 ねんねんころりよ ねんねしな 坊やの父さん国のため 遠く戦に行きました
 ねんねんころりよ ねんねしな 戦闘済んで草に寝て 夢に坊やを見るでせう
 ねんねんころりよ ねんねしな 坊やの父さん強いから きっと凱旋なさるでせう
 ねんねんころりよ ねんねしな 父さん土産は何かしら 小さい喇叭か鉄兜
 ねんねんころりよ ねんねしな もしも戦死なされたら いえいえそんな事はない
 ねんねんころりよ ねんねしな 勝って帰った父さんは 大きくなったと言はれませう

夫を戦地に送り、幼子を守り育てる母の立場で作詞されたものだ。これを読んだ時、異国の戦地で、母国に残してきた幼いわが子を思う若い兵士の心が胸に迫った。八〇歳を超えた身に、全く記憶のない父の思いが深々と沁みた。
様々な子守唄に出会ってきたが、このような子守唄は全く耳にしたことがなかった。このような唄が歌われることがあってはならない。
街角でアコーディオンを弾き、ハーモニカを吹く白衣の傷痍軍人、松葉杖で電車の中に立つ白衣・戦闘帽の傷痍軍人、胸には傷痍軍人徽章が光っていた。おのおのの胸には深く複雑な思いを刻んでいたことであろう。その姿を見かけなくなってから久しい年月が流れた。

※本文章は、『近代の記憶』の「追い書き」より一部を抜粋したものです。

近代の記憶──民俗の変容と消滅

野本寛一 著

2019年1月22日

定価 3,400円+税

井上靖 未発表初期短篇集

井上靖 未発表初期短篇集

井上靖 著 高木伸幸 編・解説

定価:本体2,400円+税

2019年4月11日刊
四六判上製 / 280頁
ISBN:978-4-909544-04-9
パンフレット


昭和の文豪、知られざる二十代の軌跡
作家の死後、自宅から発見された文壇デビュー前の草稿群を初公刊。
雑誌の懸賞小説用と思われる作品は、ユーモア・ミステリ・時代物と多彩なジャンルで、まだ大学在学中であった井上靖のバイタリティと才気が溢れている。
未発表のまま長くしまわれていた、戦後唯一の戯曲「夜霧」(後の作風にも通じる、シリアスな作品)も併せて収録。


目次

Ⅰ ユーモア小説
昇給綺談→公開中
就職圏外

Ⅱ 探偵小説
復讐
黒い流れ
白薔薇は語る

Ⅲ 時代小説
文永日本

Ⅳ 戯曲
夜霧

翻刻・校訂にあたって──各作品の特記事項
解説──小説「猟銃」への序章 高木伸幸
未発表初期作品草稿解説 曾根博義


著者
井上靖(いのうえ・やすし)

1907年旭川市生まれ。京都帝国大学文学部を36年に卒業後、毎日新聞大阪本社へ入社。50年「闘牛」で芥川賞受賞後、毎日新聞社を退社し、以降数々の名作を執筆する。『天平の甍』で芸術選奨文部大臣賞、『氷壁』で日本芸術院賞、その後も毎日芸術大賞、野間文芸賞、読売文学賞、日本文学大賞などを受賞。76年文化勲章を受章。

編者
高木伸幸(たかぎ・のぶゆき)

1966年埼玉県生まれ。広島大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。ラ・サール中学校・高等学校教諭をへて、2009年より別府大学准教授、2014年より教授。専攻は日本近現代文学(主に井上靖や梅崎春生)、昭和文学史、戦後文学、国語科教育法。著書に『井上靖研究序説──材料の意匠化の方法』(武蔵野書房、2002年)『梅崎春生研究──戦争・偽者・戦後社会』(和泉書院、2018年)。

書評・紹介

ほんのうらがわ(著者による刊行エッセイ)

『近代の記憶』掲載の囲炉裏の写真をまとめて紹介しています!

2019年1月刊行の『近代の記憶──民俗の変容と消滅』は2部構成ですが、その2部は「イロリとその民俗の消滅」と題し、著者が50年近くのフィールドワークの中で実際に出会ったイロリについて論じています。
写真も多数掲載しています。

そこで内容紹介を兼ねながらその写真をツイッターで紹介し、それをTogetterでまとめました。
『近代の記憶』掲載の囲炉裏(イロリ)の写真を紹介!

この本の序章も公開していますので、こちらもどうぞ!
序章「ムラびとの語りを紡ぐ」(PDF/全19ページ)

現代語訳 童子百物かたり──東北・米沢の怪異譚

現代語訳 童子百物かたり東北・米沢の怪異譚

吉田綱富 著 水野道子 訳

定価:本体2,300円+税

2019年3月8日刊
四六判並製 / 312頁
ISBN:978-4-909544-03-2
パンフレット


現代語で甦る 江戸後期の怪異譚
孫や曾孫たちが、そのまた孫や曾孫たちに語ってくれれば……。
名君・上杉鷹山に仕え、94歳の天寿を全うした米沢藩士・吉田綱富が、その晩年に書き残した『童子百物かたり』。
狐やうそこき名人が活躍する笑い話、水女や疫病神が登場する怪しい話、酒呑童子をはじめとする有名説話のバリエーションなど、民俗学的にも興味深い、不思議な話の数々。


目次

まえがき

童子百物かたり
一 金花山常慶院、狐の釜のこと
二 高玉村瑞龍院、狐のこと
三 墓所の釜場へ杭を打って来ること→公開中
四 隅のば様ということ→公開中
五 吉田藤助、疫病の神を見ること
六 桶屋町𥶡入六左衛門の疝気のこと→公開中
七 吉田籐左衛門、闇夜にはた物をしまうこと
八 李山村の多蔵、狐にばかされること→公開中
九 吉田一無、壮年の時大井田伊兵衛と居合稽古のこと
十 吉田一無、若い時狐にばかされること
十一 古志田村七兵衛、初春に大黒を拾うこと
十二 河内勘大夫、石仏を切ること
十三 石野六左衛門、狐を追うこと
十四 人魂を見ること
十五 篠田何某のこと
十六 吉田藤助、夜中に野合で女に出会うこと
十七 長町七助、初春に鷹を拾うこと
十八 吉田、学館より帰る途中で、異相の野郎を見ること
十九 田滝甚蔵、馬場尻で坊主を見ること
二十 大木のこと
二十一 大雷のこと
二十二 狼のこと
二十三 雷什和尚のこと
二十四 草の岡洞昌寺のこと
二十五 浅間五右衛門、勇力のこと
二十六 吉田一無、弟の浅間五右衛門を捕り伏せること
二十七 火付けばばのこと
二十八 国分何某の嫡子、水女を切ること
二十九 浅間五右衛門、塩野村の小桜を投げること
三十 座頭金玉殺されること
三十一 若林弥五左衛門のこと
三十二 梅沢運平と千眼寺の小僧のこと
三十三 陰火を見ること
三十四 うそこき名人のこと
三十五 奥泉平左衛門、狐待ちすること
三十六 白井西雲のこと
三十七 丸橋忠弥、傷寒をわずらうこと
三十八 白井西雲、棒修練のこと
三十九 長命寺の老僧、怪異なものを見ること
四十 西海枝彦兵衛家、二度びっくりのこと
四十一 火事場に怪鳥飛ぶこと
四十二 化け物のこと
四十三 馬下何某、化け物を見ること→公開中
四十四 若林源兵衛、大音のこと
四十五 関戸甚六、弘法大師を捕えること
四十六 山道半兵衛のこと
四十七 ある人、北御堀端で夜中に老女を助けること
四十八 平の友盛のこと
四十九 玉石のこと
五十 酒呑童子のこと

解説

あとがき


著者
吉田綱富(よしだ・つなとみ)

宝暦6年(1756)、猪苗代町に生まれる。米沢藩の藩士として、番所勤、奉行附物書、役所役などを歴任し、文政3年(1820)、「その身一代限り御馬廻」に昇格、三の丸御屋敷将まで昇進した。天保元年(1830)に75歳で隠居。嘉永2年(1849)、93歳で没。号・糠山。書き物をよくし、25歳頃からの日記のほか、『蛙之立願』『童子百物かたり』『綱富一代記』などを残す。

訳者
水野道子(みずの・みちこ)

1948年、山形県米沢市生まれ。5歳より東京在住。1966年、東京都立武蔵高等学校卒業。1971年、東洋大学文学部国文学科卒業。日本民俗学会、日本昔話学会、伝承文学研究会、西郊民俗談話会会員。
編著に『米沢地方説話集』、共著に『中野の昔話・伝説・世間話』、『紫波の民話』、『小平ちょっと昔』、『国分寺の民俗』3~6、『国分寺市の民家』など。

書評・紹介

ほんのうらがわ(著者による刊行エッセイ)

『近代の記憶』序章「ムラびとの語りを紡ぐ」を無料公開!

2019年1月刊行の『近代の記憶──民俗の変容と消滅』の序章「ムラびとの語りを紡ぐ」をPDFで公開いたします。

民俗学者・野本寛一氏の特徴は、とにかく一次資料(つまり自分が直接聞き取った話)にこだわるところですが、この序章でも「近代」とはどんな時代だったのかを生活の底から考えさせられる、生々しい聞き書きが展開されます。

「夫は苦悶の末、田中山へ行って酸漿(ほおずき)の根を掘って持ち帰り、みつさんにこれを煎じて飲んでくれと呟いた。この地では酸漿の根は「子ハライ」の薬になると言い伝えられていた。「苦かった。あの苦さは忘れません──」とみつさんは語る。」

そしてもう一つ、瞽女(ごぜ/盲目の門付女芸人)についても以下のような聞き書きがあります。

「清太郎さんは「瞽女の唄聞き歩くと嫁なんぞはもらえないからな」──と親たちから瞽女宿へ行くことを禁じられた。普通の人は瞽女宿へは行かなかった、という言葉に対してその説明を求めると、「二二、三歳から三〇代になっても嫁のもらえない小作人の男たちが集まった」「瞽女は一〇銭で言うことを聞くという話を聞いたことがあった」という説明が返ってきた。(中略)もとより宵の口には、瞽女唄や口寄せが行われたのであるが、夜が更けると宿に泊まってゆく男たちがあったのである。」

本書はこの序章をとば口とし、400ページにわたる圧倒的な分量で、民俗と近代の関係を考えていきます。
ぜひご一読ください!

序章「ムラびとの語りを紡ぐ」(PDF/全19ページ)
Amazon.co.jp『近代の記憶』