変わるもの、そして変わらないもの/西座理恵

変わるもの、そして変わらないもの

西座理恵(『「面」と民間伝承』著者)

 本書は「面」と関わる民間伝承(昔話、伝説など)について記しており、博士論文を元に執筆しました。長女の出産後に大学院を満期退学したため、学位を取得するために主婦をしながら大学院に再入学をしました。人生最後の学生生活を送った2020年度はコロナ禍のはじまりでした。その年のお正月に、テレビでコロナウイルスのニュースを目にして、家族とともに「怖いね」と他人事のように話していました。ところがそれは、どこか遠い場所の脅威ではなくなり、世界中の日常生活を送る人々に影響を及ぼし始めました。新年度の学校は中々再開されず、初経験のリモート授業となり、大学の図書館に出向くことも難しくなりました。

 2020年前半のコロナ禍で多くの家庭の主婦が直面した問題の一つに、毎日の食料の買い出しと食事作りがありました。古今を問わず、主婦は様々な家事を担ってきたようです。本書のⅠ部では「肉附き面」という昔話を取り上げています。この昔話では、姑が説教を聞くために寺参りへ行く嫁を、道の途中で鬼面を付けて待ち伏せし、脅します。すると、鬼面が姑の顔から外れなくなります。また姑は嫁から寺参りの時間を奪うために、多くの仕事を言い付けます。その仕事の内容は米や雑穀を臼で挽く、繊維を紡いで糸にするというものでした。以前、群馬県の六合村を訪ねて年輩の女性からお話をうかがったときに、戦後の物のない時代には手ぬぐい一つも自分で作ったと聞きました。現在ならば、買いに行くとすぐに手に入る一本のタオルを自分で作るという話に、その大変さが思いやられました。また、本書で取り上げた『官刻孝義録』という書物のなかには、農業、小さな商い、介護に奮闘しながらも両親、義父母そして夫に従順に仕える女性の姿がありました。洗濯機、冷蔵庫、掃除機、どれか一つが壊れても家事がままならないと嘆き、ストーブの灯油がなくなり、パソコンで間違ったボタンを押す度に慌てて夫に告げる私には、とても昔の嫁は務まりません。

 また、コロナ禍で世の母親たちが直面した問題の一つに、子どもたちの学校の休校があったと思います。子どもが学校に行っている時間が博士論文の執筆時間になるため、私にとって小学校の休校は緊急事態でした。そのような中、子どもを公園にも行かせづらく、我が家も映像配信サービスに子守りを頼り、当時小3の娘はアニメ『鬼滅の刃』に夢中になっていました。話の内容を知らなかった私は、人が殺されたり、血が飛び散ったりする場面を目にして、子どもに見せてもよいのかと不安を抱くと同時に、それまで怖い話を嫌った娘が夢中になっていることが不思議でした。ですが、物語のあらすじや主人公の優しさを興奮気味に語る子どもの様子と自身の時間のなさに、見るのを止めさせることはできませんでした。結局、子どもが夜中に怖い場面を思い出して起きたり、泣いたりしなければ、アニメを見せることにしました。後に私も『鬼滅の刃』の漫画本やアニメから、貧困や弱い立場にある人々が迫害を受けて鬼になる様子や、鬼を倒す少年が鬼になった人の生い立ちを憐れむ気持ちも描かれていることを知りました。

 本書では吉田綱富『童子百物かたり』第五十話「酒呑童子のこと」という話を取り上げています。この作品でも「酒呑童子」が「童子だって、生まれたときからの鬼ではない。父もあれば、母もある」と語ります。そして、酒呑童子を倒しに行った武者たちは酒呑童子の話に耳を傾けて涙を流します。また語りの場面では、八歳の男の子が按摩坊の「酒呑童子」の語りに耳を傾けて楽しみます。ここには、勧善懲悪な「酒呑童子」の物語とは少し違った話の要素がみられます。鬼を「悪」の側面からのみ捉えない点や子どもたちが鬼退治の話を楽しむ様子から、時代や媒体は違えども人が心をひかれる話には何か共通するものがあるのかもしれません。「酒呑童子」が鬼になるまでを描く話は多くないのですが、本書のなかでは伝説やお伽草子といったジャンルの話を取り上げており、お伽草子『伊吹山酒典童子』では、顔から「面」が離れなくなった稚児が「酒典童子」になります。

 博士論文の執筆のために様々な資料にあたるなかで、古典の時代を生きた人々がもし現代の生活を知ったなら、どのように感じるだろうかと考えることがありました。現代の私たちは、遠い場所に住む人とモニターを通してではありますが、顔を見て話すことができ、家事の多くを家電に任せることができます。しかし、家電が発達しても嫁姑問題が消滅したかと言えば、いまだ人間関係における葛藤の一つとして存在します。そして相変わらず、鬼や妖怪を退治する話は子どもたちに大人気です。また、現在のコロナ禍でも昔の人々が行ったように疫病退散を祈る行事が全国各地で行われています。このように考えると、人の心は古今を通じて容易に変わるものではないように感じます。心の周辺を描く様々な文化的作品が人々を魅了し続ける要因はそこにあるのかもしれません。本書は研究書ではありますが、民間伝承を通じて昔の人々も現代の人々と同じように人間関係に悩んだり、鬼の話を楽しんだりしながら日々を生きていたというようなことも感じて頂ければ、筆者としてうれしく思います。

「面」と民間伝承──鬼の面・肉附き面・酒呑童子

西座 理恵 著

2022年2月28日

定価 6,800円+税

「ヨソ者」の利点/桐村英一郎

「ヨソ者」の利点

桐村英一郎(『木地屋と鍛冶屋』著者)

 新聞社を定年退職後、生まれ育った東京を離れ、奈良県明日香村で六年ほど暮らしたのち、三重県熊野市波田須町に移り住みました。大都会に出るのに時間がかかるけれど、それがまた居心地よく、借家の窓から熊野灘を眺める生活もいつの間にやら十二年目です。
 コロナで海外旅行もままなりませんが、ある住民が「ここには海も山もいっぱいある。わざわざ外国まで出かけることはないよ」と言うのを聞くと、それもそうだと思います。まあマスクをせずに散歩でき、ときおり鹿や猿に出くわす日々は悪くありません。
 
 明日香村の時代、そして熊野に来た時分の興味の対象は古代史でした。現役時代は経済記者でしたから、歴史はずぶの素人。でも「シロウトのヨソ者」にもメリットはあります。それは「見るもの聞くもの新鮮で、しがらみがない」ということです。
 熊野の第一作は『熊野鬼伝説』という題で、坂上田村麻呂の鬼退治伝説の背景をさぐってみました。明日香村で住んでいた地区は、田村麻呂の父・苅田麻呂ともつながる渡来人が古代に定着したところです。ですから私には京の都にいた田村麻呂の知識も多少ありました。八世紀末から九世紀初頭の蝦夷征討で有名な田村麻呂は鈴鹿峠を何度も行き来したでしょうが、熊野には来ていないはず。それなのに近辺の鬼ケ城、泊観音、大馬神社などに彼の鬼退治伝説が根付いているのはなぜだろう。そんな素朴な疑問が探究に駆り立てたのです。
 そこにはどうやら『熊野山略記』というネタ本があったようです。この中世文書には「熊野三党(地元の豪族)が南蛮(南から来た海の民)を退治した」とあります。これら化外の民が鬼になり、天皇の命で制圧した熊野三党が田村麻呂になった。そう推測しました。
 熊野は昔から漁民、修験者、そして三山への参拝者など東北地方との交流が少なくありませんでした。近世になって伊勢路沿いの社寺が英雄譚を自社の縁起に取り入れた。そんな事情もあったと思います。地元の人は子供のころから聞かされ当たり前に思う伝説や伝承を新鮮な目で見直し、自分なりの仮説を立ててその立証を試みるのは楽しいものです。
 次の作品『イザナミの王国 熊野』の仮説はもっと突拍子のないものでした。熊野三山のカミ、すなわち熊野速玉大社の主祭神・速玉(早玉)神と熊野那智大社の主祭神・夫須美(結)神の原郷はインドネシアのセラム島だ、なんて説を唱えたのです。
 詳しくは拙著をお読みいただくしかありませんが、ハイヌウェレという南島の穀物創世神話が黒潮に乗って熊野に流れ着き、「結早玉(むすびはやたま)」という熊野独自の神格に育った、と考えました。
 
 明日香村時代、古代史の泰斗である故上田正昭先生にお世話になりました。『大和の鎮魂歌』に一文を寄せていただき、次の『ヤマト王権幻視行』では「幻を見たんじゃ批判できないなあ」と私をからかいながら、歴史地理学の千田稔氏と一緒に巻末に載せた座談会に参加してくださいました。
 「君は気楽になんでも書けていいなあ」「つまらない古代史マニアになりなさんなよ」といった先生の言葉を思い出します。仮説検証型のアプローチをする場合、できるだけ文書や書物に当たる一方、現場を訪ねて自分の目で確かめる。そして専門家が「もしかしたら、そんな可能性もあるかもしれない」と思うぐらいまで迫ってみたい。そう自分に言い聞かせてきたのは、上田先生のそんな言葉がいつも頭にあったからです。

 私はこれまでもっぱら古代史の探究を楽しんできました。それが七月社から出版した『木地屋幻想』で一気に近世に飛んだのです。木地屋(木地師)は山中に暮らし、トチ・ブナ・ケヤキ・ミズナといった木を刳り抜いて椀や盆などを作る職人です。なぜ彼らに惹かれたか、は『木地屋幻想』やその続編でもある今回の『木地屋と鍛冶屋』のあとがきをお読みください。古代に黒潮に乗ってやってきた人々にも、山々を渡り歩いた漂泊民にも、火と水と風を操る鍛冶屋にもロマンを感じます。
 『木地屋と鍛冶屋』には現存の方々とその家族が登場します。時代は下っても「仮説を立てて、その検証を試みる」という手法は変えていません。それは「家系の謎解き」のくだりです。拙著を開いてご覧になってください。

木地屋と鍛冶屋──熊野百六十年の人模様

桐村 英一郎 著

2022年2月24日

定価 1,200円+税

木地屋と鍛冶屋──熊野百六十年の人模様


試し読み

木地屋と鍛冶屋
熊野百六十年の人模様

桐村 英一郎 著

定価:本体1,200円+税

2022年2月24日刊
A5判並製 / 96頁
ISBN:978-4-909544-23-0


森を渡り歩いた漂泊民と炎を操る孤高の職人
木地屋から身を起こし長者となった小椋長兵衛、疫病退散の題目塔で名を残す木地亀蔵、その製品の評判が海外にまで轟いた新宮鍛冶の大川増蔵。
幕末から近代にかけて、熊野の地で活躍した三人をつなぐ細い糸をたどり、その末裔たちの現在までを追った人間ドラマ。


目次
まえがき

第一話 椎茸長兵衛──祖神の縁起を伝え持つ
第二話 金借り道──庄屋まで一札入れる
第三話 新たな発見──先祖への想いが実る
第四話 大義院──縁ある人をひとまとめに
第五話 賀田村──買った山林で潤う
第六話 木地亀蔵──長兵衛とつながる糸は
第七話 題目塔──疫病退散の願い込め
第八話 新宮鍛冶──入鹿、三輪崎鍛冶が合流
第九話 大川増蔵──新宮の川原町で開業
第十話 キリスト者──尾鷲で接し、新宮で洗礼
第十一話 熊野川町畝畑──出会いの縁の不思議

あとがき


著者
桐村英一郎(きりむら・えいいちろう)

1944年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。朝日新聞入社後、ロンドン駐在、大阪・東京本社経済部長、論説副主幹を務めた。2004年末の定年後、東京を離れて奈良県明日香村に住み、神戸大学客員教授の傍ら古代史を探究。2010年秋から熊野市波田須町で暮らしている。三重県立熊野古道センター理事。熊野に来てからの著書に『熊野鬼伝説』『イザナミの王国 熊野』『古代の禁じられた恋』『熊野からケルトの島へ』『祈りの原風景』『熊野から海神の宮へ』『一遍上人と熊野本宮』『木地屋幻想』『熊野山略記を読む』などがある。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

「面」と民間伝承──鬼の面・肉附き面・酒呑童子

「面」と民間伝承
鬼の面・肉附き面・酒呑童子

西座 理恵 著

定価:本体6,800円+税

2022年2月28日刊
A5判上製 / 384頁
ISBN:978-4-909544-24-7


伝承は語る。「鬼面」を手にして魔を払う者は富貴となり、顔から離れずに「肉附き」となった者は鬼と化す──
神事や芸能において重要な役割を担う「面」は、昔話や伝説、お伽草子などの物語に取り入れられ、多彩なバリエーションをもって語られている。
伝承や信仰との相互関係を見据えながら、「面」のもつ豊かな象徴性を明らかにする。


目次
序章 「面」とは何か──信仰・芸能・話の世界
先行研究の紹介

Ⅰ 昔話における「面」
第一章 昔話「肉附き面」と蓮如信仰
第二章 昔話「肉附き面」の背景──近世社会における女性と生活
第三章 昔話「鬼の面」における「鬼面」の呪力
第四章 昔話「鬼の面」における「愚息型」と「孝女型」の考察

Ⅱ 「肉附き面」モチーフの生成と変容
第一章 「肉附き面」モチーフの変容
第二章 白馬村の「七道の面」伝説
第三章 「肉附き面」モチーフの多義性

Ⅲ 「酒呑童子」伝説の変容と「肉附き面」モチーフ
第一章 新潟の「酒呑童子」伝説
第二章 「酒呑童子」になる者──顔の変化から「肉附き面」へ
第三章 「酒呑童子」伝説と鉄砲・金属産業の信仰
第四章 お伽草子『伊吹山酒典童子』の「面」と神事芸能

Ⅳ 近代の文芸に取り入れられた「面」
第一章 芥川龍之介「ひよつとこ」の「面」の解釈

終章 「肉附き面」モチーフの話の周辺

初出一覧
あとがき
索引→公開中


著者
西座理恵(にしざ・りえ)

1975年、大阪府に生まれる。
2002年、早稲田大学文学研究科日本文学専攻修士課程修了。
2021年、國學院大學大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)取得。

書評・紹介

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

接続する文芸学──村上春樹・小川洋子・宮崎駿


試し読み

接続する文芸学
村上春樹・小川洋子・宮崎駿

中村三春 著

定価:本体3,500円+税

2022年2月22日刊
四六判上製 / 352頁
ISBN:978-4-909544-22-3


物語を語り、読むことは、私を私ならざるものに「接続」することである。
語り論、比較文学、イメージ論、アダプテーション論を駆使して、村上春樹『騎士団長殺し』『多崎つくる』『ノルウェイの森』、小川洋子『ホテル・アイリス』『猫を抱いて象と泳ぐ』『琥珀のまたたき』、宮崎駿『風の谷のナウシカ』『風立ちぬ』などを論じる。


目次

はしがき

序説 接続する文芸学──語りの〈トランジット〉

Ⅰ 村上春樹
第1章 「壁」は越えられるか──村上春樹の文学における共鳴→公開中
第2章 運命・必然・偶然──村上春樹の小説におけるミッシング・リンク
第3章 見果てぬ『ノルウェイの森』──トラン・アン・ユン監督の映画

Ⅱ 小川洋子
第4章 小川洋子と『アンネの日記』──「薬指の標本」『ホテル・アイリス』『猫を抱いて象と泳ぐ』など
第5章 小川洋子と〈大人にならない少年〉たち──チェス小説としての『猫を抱いて象と泳ぐ』
第6章 小川洋子『琥珀のまたたき』と監禁の終わるとき──『アンネの日記』とアール・ブリュットから

Ⅲ 宮崎駿/宮澤賢治
第7章 液状化する身体──『風の谷のナウシカ』の世界
第8章 宮崎駿のアニメーション映画における戦争──『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』まで
第9章 変移する〈永遠の転校生〉物語──伊藤俊也監督『風の又三郎 ガラスのマント』


あとがき
初出一覧
索引→公開中


著者
中村三春(なかむら・みはる)

1958年岩手県釜石市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退。博士(文学)。北海道大学大学院文学研究院教授。日本近代文学・比較文学・表象文化論専攻。
著書に『〈原作〉の記号学 日本文芸の映画的次元』(七月社)、『フィクションの機構』1・2、『新編 言葉の意志 有島武郎と芸術史的転回』、『修辞的モダニズム』、『〈変異する〉日本現代小説』(以上、ひつじ書房)、『係争中の主体 漱石・太宰・賢治』、『花のフラクタル』、『物語の論理学』(以上、翰林書房)、編著に『映画と文学 交響する想像力』(森話社)など。

書評・紹介

  • 2022-04-22「週刊読書人」
    評者:千葉一幹(大東文化大学教授)
  • 2022-07-09「図書新聞」
    評者:高橋由貴(福島大学准教授)

ほんのうらがわ(編者による刊行エッセイ)

電話の声による繋がり/黒田翔大

電話の声による繋がり

黒田翔大(『電話と文学』著者)

 私は電話で通話をする機会がそれほど多くない。スマホやケータイを使うとしても、通話ではなく、メールやインターネット検索などがほとんどである。電話は本来的に声によって繋がるメディアであるが、スマホやケータイには様々な機能が集約されている。通話するという機能は、その多くの機能の一つになっているのである。仕事上電話を頻繁に使うというのでなければ、プライベートで通話をするということが少ない人も多いのではないだろうか。少なくとも私はそうである。

 しかし、個人的にそのような状況が少し変わったように感じている。コロナ禍ということもあり、遠隔授業やテレワークの機会が多くなり、オンライン上で人と接することが多くなった。そのため、オンライン上で人と会話するための環境が構築され、通話をする機会が増加した。そして、友人と直接会うことが制限されているので、通話による繋がりを私は以前よりも求めるようになった。

 ただし、これはZoom、LINE、Discord等のアプリを用いたものなので、従来の電話の通話と全く同列に扱って良いのかは分からない。また、私の場合はスマホやケータイでは内臓のマイク性能に不安があるため、PCとその周辺機材を用いている(これも拘りだすときりがなく、高価なマイクやオーディオインターフェースが欲しくなってしまう)。しかし、いずれにせよカメラをオンにしてビデオ通話をしていない限り、電話による通話と近いものがあるだろう。

 電話がスマホやケータイというように進歩し、通話機能自体は相対化されている。しかし、だからこそ、(本書では扱っていないが)他の機能と比較しやすいという状況になっているのではないか。またコロナ禍ということもあり、通話をするという機会も増えつつあるのではないか。このようなことから、電話で声によって繋がるとはどういうものなのかを考える大きなきっかけになると個人的には考えている。

 本書では触れることはなかったが、執筆中に考えていた事柄をいくつかここで挙げておきたい。

 本書では固定電話を扱っているが、現代では多くの人々がスマホやケータイを持ち歩いている。固定電話からスマホやケータイへと移っていく過程で、自動車電話やショルダーホンがあった。第五章でも言及しているが、推理小説では電話が犯人からの連絡手段として用いられることが多い。自動車電話の登場は、推理小説にも影響を与えており、それがトリックの要素として使われているケースも多々ある。これにポケベルなども加えて、ケータイやスマホの前段階を考察する必要があると考えている。

 また、第三章では「満洲国」における電話に関して扱っているが、台湾や朝鮮といった外地に対する考察も求められるだろう。「満洲国」や外地では言語の問題が出てくる。そのため、電話交換手の育成よりも自動交換機の設置の方が合理的だとされた内地と異なる事情があった。それを考えていくことは、電話研究だけでなく「満洲国」や外地の研究にとっても重要になるのではないかと感じている。

 最後に個人的な感想を記しておく。「あとがき」にも書いているが、本書の中でもとりわけ初めての学会発表と論文掲載をした安岡章太郎『ガラスの靴』を題材として扱った第四章は感慨深い。初めての学会発表では当時の全力を出し、発表した内容がほぼ全てであった。そのため、質疑応答に答える余力は残されていなかった。学部時代の恩師から質疑を受けるが、それに対する十分な答えを明示することは出来ないと瞬時に理解し、何とかその場を凌ぐようなことしか言うことができなかった。これは苦い思い出であると同時に良い思い出だと今では考えている。

 そして、本書も同様に私にとって初めての「本」としての著作物であり、全力は出せたと思う。そのような意味でも個人的には記念になるものだと感じている。今後の研究者としての道を進む上で、きっと特別な糧になると確信している。それに加えて、本書が同分野に幾分かの貢献ができていれば、それ以上の喜びはない。

電話と文学

黒田 翔大 著

2021年10月14日

定価 4,500円+税